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医学の歴史【6】消毒法

どうも教養レディオです。通勤、家事の合間に聞き流しお願いします。

さて前回、19世期半ばのアメリカにおける吸入麻酔法の発見についてご説明しました。19世期半ばといえば、1853年、我が日本にペリーが来航した時期です。日本が欧米を中心とする世界経済に組み込まれた世紀です。さらに明治維新によって、西洋医学が日本の医療の主流となるのもこの頃です。世界はまさに激動の時代でした。

19世期は科学の世紀と呼ばれ、現代に生きる我々にとって欠かすことのできないテクノロジーが多く生まれた時代でした。19世期以前は、この世界の真理を解き明かす方法として自然哲学と呼ばれる学問が大きな存在感を放っていました。自然哲学とは、現代で言うところの自然科学、つまり自然を説明し理解するための学問でで、世界を形づくる法則を解き明かすことで神の意思を読み解こうとするものでした。神が作った世界を形づくる法則の中に神のメッセージが込められているとの考えのもとに、自然における様々な現象を包括的に説明する学問、それが自然哲学でした。19世期からは、自然哲学に内包されていた様々な分野がより細分化、そして専門化されることで、それぞれの分野に枝分かれしていくこととなります。

19世期は蓄音機、電話、白熱電球、蒸気機関、自動車など数多くの発明がなされた時代でした。我々の生活に欠かせないテクノロジーは、この時代に産声をあげたんです。人類が手にした科学が花開いた時代といえますね。さらにダーウィンの自然選択説、パスツールの自然発生説の否定、微生物学の大きな進展などそれまで人々が抱いていた生命観が一変し、より科学的な視点が多くの人々に根付いた時代だったんです。

さてそんな19世期、医学における常識中の常識、消毒法が発見されました。現代では子供でも分かる概念が、なんと19世期後半まで存在すらしていなかったんです。この事実には驚きを隠せません。しかし消毒法の確立には、感染症の実態を把握するための客観的視点、そして微生物学による裏づけが絶対に必要でした。どんなに画期的な技術を発明したとしても、それが社会的に広く認知され利用されていかない限り、良い変革はもたらすことができません。

消毒法は感染症学、外科学の発展に必要不可欠な概念です。そして天然痘根絶への第一歩を踏み出したジェンナーとならび、多くの人命を救うこととなるこの消毒法の確立と社会的認知に至るまでは2人の人物が大きな貢献をしました。消毒法確立への貢献、それはすなわち人類への貢献と言えましょう。ジェンナーに続く救世主2人の物語をご説明します。

それではいきましょう!

19世期、全身麻酔法の発見は外科手術の可能性を飛躍的に広げました。しかし外科手術後の患者の容態は改善していませんでした。当時は消毒という概念が存在していなかったために、外科医は返り血で汚れたコート、手術器具を使い回し、汚れた手で患部をかき回していました。当然ながら外科手術後の患者は高確率で感染症に苦しめられていたんです。当時は微生物が化膿、腐敗、発酵を引き起こすことは知られていなかったので、当然といえます。17世期科学革命の時代、顕微鏡学が誕生し微生物を発見、観察していた時代が確かにありましたが、時はながれ、かつての成果は人々から忘れさられていたんです。

消毒法発見のきっかけとなるのは、産褥熱の研究から始まりました。産褥熱とは出産後に子宮や産道の傷に細菌が感染することで引き起こされる化膿性の疾患です。1843年、アメリカの解剖学者が産褥熱の原因と予防に関する論文を発表しましたが、感染症の概念が存在していない当時、この論文は社会的に受け入れられませんでした。

しかしこの論文の正しさは、消毒法確立への立役者の1人、母親たちの救世主と呼ばれた産科医イグナーツ・ゼンメルワイスによって証明されることとなります。

ゼンメルワイスは1818年ブダペストに生まれ、1837年にはウィーン大学で法学を学びました。そしてウィーン総合でたまたま見学した病理解剖を見て医学に興味を抱き、医学部に転入します。

その後はウィーン総合病院の第一産科学教室の助手となり産科医としての勤務を始めますが、この頃産科病棟では産褥熱が猛威を奮っていました。書物を読み漁り産褥熱の原因を調べまくったゼンメルワイスでしたが、一向に原因はわかりませんでした。

当時のウィーン総合病院では年間約3500例もの分娩を取り扱っており、妊婦が入院する病棟は2つにわけられていました。医師と医学生が分娩を取り扱う第一病棟。そして助産師が分娩を取り扱う第二病棟。それぞれ妊婦が来院した曜日によって病棟の振り分けが行われていましたが、ここに大きな問題がありました。

第一病棟の産褥熱による死亡率が慢性的に10%を超えていたんです。第一病棟の死亡者は第二病棟の10倍も高かったのです。第一病棟に入院した妊婦のうち実に1割が産褥熱で死亡していたことになります。

これは院内院外問わず周知の事実であり、病院に訪れる妊婦は医師にすがりつき泣き叫びながら第一病棟への入院を拒絶する有様でした。さらには入院するよりも自宅で出産することを希望する妊婦まであらわれ、ゼンメルワイスはこの2つの病棟の産褥熱患者の違いに困惑しました。2つの病棟は隣り合わせで建物の構造にも大きな違いはありません。この産褥熱患者の差はどこからきているのか。頭を抱えたゼンメルワイスは原因究明のため病理解剖に励みました。

しかし。ゼンメルワイスが熱心に働けば働くほど彼の周りでは産褥熱による死者が増えていくのです。彼はそれでも諦めず、データの分析を行いました。院内出産よりむしろ自宅出産の方が死亡率は低い、産褥熱の流行には気候や季節の相関関係はない。分娩時の傷が大きいほど罹患率が高い。データを分析しながらさらに頭を抱えるゼンメルワイス。

そんな中ウィーン大学で悲しい事件が起こりました。ゼンメルワイスと親しかった法医学教授が敗血症を起こして急死してしまったのです。この法医学教授は病に倒れる前、産褥熱患者の病理解剖の際、学生のメスによって腕に傷を負っていました。敗血症というのは、感染を元にしておこる全身性のショック症状です。

法医学教授の解剖所見を見たゼンメルワイスは驚きました。リンパ節や髄膜の化膿と炎症。産褥熱患者の症状とまったく同じだったからです。そしてゼンメルワイスは恐ろしい答えに辿り着いてしまいます。

「産褥熱は化膿を起こす未知の物質が子宮に入り込む事で起こる。この未知の物質は産褥熱で死亡した患者を解剖した時に医師の手に付着した死体の微粒子であり、医師や医学生が解剖のあと死体の微粒子が付着した手で妊婦に触れることで産褥熱を広げているのだ。つまり。妊婦を殺していたのは、我々医者の手であったのか。なんということだ。

医師が病気を引き起こしているなどあってはなりません。しかしこれが彼の導き出した答えだったんです。この日から彼の孤独な闘いが始まりました。彼が選んだ武器は洗面器でした。

1847年、ゼンメルワイス28歳の時、自身が導き出した答えに従い脱臭作用のある塩素水での手洗いを徹底しました。です。彼は主任教授の許可も取らず第一産科病棟に手洗いを促す貼り紙を行い、病棟での監視をおこないました。周りの医師たちは当然乗り気ではありませんが、ゼンメルワイスの気迫に押されしぶしぶ手洗いを行いました。

手洗いの効果は絶大なものでした。第一産科病棟の産褥熱発症率は激減し、第二産科病棟との差がなくなったのです。なんと第一病棟の産褥熱による死亡率は12%から1%に激減しました。ゼンメルワイスは微生物による感染を理解していたわけではなく、死体臭を消し去るための塩素水消毒が、結果的に原因菌自体を消し去っていたのです。

ウィーン大学ではゼンメルワイスの主張に賛同する医師が次々と現れました。しかしゼンメルワイスは論文発表を勧められながらも、論文作成に乗り気でなく、結局彼の発見は友人によってウィーンの医学雑誌に掲載されることになります。

ゼンメルワイスの発見に対し、賛同者はいたものの反対派も多くいました。ウィーン大学の産科学主任は、ゼンメルワイスが独断行動をとったことを不快に感じており、ゼンメルワイスの助手の期限が切れたことをきっかけとし、反逆者の烙印を押したうえで大学から追い出してしまいました。

このままでは消毒法発見の成果が埋もれてしまうことを危惧した消毒法の賛同者たちは、ゼンメルワイスに学会での発表を促しました。ウィーン医学協会での公開討論は好評だったものの、ゼンメルワイスはまたしてもこの成果を論文に残すことをしませんでした。

満足のいくポストを得られなかった彼は、突然ウィーンを離れ、故郷ハンガリーに戻ってしまいます。そして1855年、36歳の時故郷のペスト大学教授に就任しました。この肩書きを得たことで、彼はようやく重い腰をあげ消毒法の論文作成に取り掛かりました。1860年には論文を発表、あわせて外科医に対して手や手術器具の洗浄を啓蒙しました。しかし彼の努力もむなしく、消毒法は世に受け入れられることはありませんでした。これには大きな原因がありました。

消毒法を認めるということは、今まで多くの患者の命を奪ってきたのは医者自身であることを認めることに他ならないからでありました。大多数の医師は、ゼンメルワイスの主張を黙殺したのです。さらにドイツの病理学者ルドルフ・ウィルヒョウが彼の説を否定したことも大きな原因でした。医学界での権威であったウィルヒョウの言葉は、無名のゼンメルワイスの主張を葬り去るには十分すぎる力をもっていました。

誰もゼンメルワイスに耳を貸さなくなったことで、彼は攻撃的になってしまい、ますます世間から孤立してしまいます。そしてついには医師としての職も剥奪されてしまった彼は、精神に異常をきたすに至ります。躁鬱症状から始まり、奇行が増え、ついには認知症を患ってしまった彼は、精神病院において47年の人生に幕をおろしました。

ゼンメルワイスは優れた洞察力で目覚ましい成果を上げた、まさに救世主と言っても差し支えない医学者でした。時代が彼の味方をしていれば、彼の名は永遠に人類史に刻まれたことでしょう。不遇の人生を送った彼の功績。現在はブダペストの彼が生まれた家が医学歴史博物館として保存され、多くの見学者を集めています。

 

 

前述のとおりゼンメルワイスが消毒法を発見したものの、その社会的な認知は低いものであありました。ゼンメルワイスの主張は、当時の医学会では「非科学的」と見なされており、未だに四体液説が医学の主流だったんです。そんな中、消毒法を社会的に広く認知させたのが、消毒法のもう一人の立役者、イギリスの外科医ジョゼフ・リスター(1827〜1912)であります。

リスターはイギリスのロンドン郊外、エセックス州アプトンに生まれました。リスターの父は独学で数学や光学を学び、ロンドン王立協会の会員に選ばれた顕微鏡学者でありました。そんな父を見て育ったためか、幼い頃から自然科学への興味をもち、将来は外科医になるのが夢でありました。リスターは1844年、ロンドン大学のユニーバーシティカレッジに入学、そこで貴重な体験をします。それはアメリカからもたらされた全身麻酔手術の公開実験で、イギリス初の全身麻酔手術でありました。この公開実験の20年後、まさか自らが消毒法を社会的に認知させ、近代外科学への道を切り開くことになろうとは、リスター本人は思いもしなかったことでしょう。

当時のイギリスは世界の工場と呼ばれ、世界の科学、工業をリードする華やかな時代を謳歌していました。1851年には第一回万国博覧会を開催し、イギリスの技術力を世界に見せつけていた時期でした。この19世紀においては世界各国に産業革命のビッグウェーブが伝播し、19世紀末には日本においても産業革命が起きました。1868年、明治時代に突入した日本は、アヘン戦争でイギリスに敗北した中国、そして植民地化する東南アジアを見ていました。日本が独立国として存続し続けるために日本の近代化を超スピードで推し進めていた、そんな時期でした。なお世界初の産業革命を成し遂げたイギリスは、民間主導で産業革命が行われたのに対し、産業革命の後進国は政府の強力なリードによって産業革命が推し進められていたことも興味深い事実ですね。

このように技術革新は世界中で行われていたにも関わらず、医学においては未だに瘴気などという曖昧でオカルトな学説が主流であり続けていました。傷の化膿は、空気中の瘴気によって引き起こされる、というのが常識だったわけです。消毒法の基礎はゼンメルワイスによって提示されてはいたものの、彼の学説は当時のヨーロッパにおいてはほとんど知られていませんでした。

1865年、リスターの友人がフランスの細菌学者ルイ・パスツールが発表した論文をリスターに紹介しました。この論文こそパスツールが1861年に発表した「自然発生説の検討」であり、人類の生命観を転換させるに至る名著でありました。この論文は、腐敗や発酵という現象は、微生物の働きによって起こることを証明するものでありました。リスターは傷の化膿も微生物の働きによる腐敗現象であるという仮説のもとで、微生物を殺す薬で傷口を覆えば感染から患者を守れるのではないかとの考えに至ります。

当時「開放骨折」した患者のほとんどは敗血症(感染を基盤とする全身性炎症反応症候群)で亡くなっていました。放置すればほとんどが敗血症で死亡するため、それを避けるために四肢の切断を行うのが当時の常識的な処置でありました。しかし切断後も感染症によりその半数が命を落としていました。

彼は予後の極めて悪かった開放骨折に自身の消毒法を用いました。リスターの消毒法は、都市から出る汚水やゴミの消臭剤として用いられていたフェノールに浸した布で患部を覆うものでした。馬車に轢かれ開放骨折した少年に、この方法を初めて実践したのです。それは1865年8月12日。奇しくもゼンメルワイスの死の前日の出来事でした。

消毒法にて処置した少年の傷口は感染を起こすことなく完治し、なんとその後も10例の解放骨折に同様の方法を用い、8例に成功をおさめました。そして1867年にこの成果を論文にて発表しました。しかし彼の発見は、未だ四体液説がはびこるイギリス国内ではあまり受け入れられませんでした。

リスターは世間からの批判に苛立つことなく、臨床実験の成果を追加報告し続けることで自らの正当性を証明しました。彼はフェノールの噴霧が全ての外科処置に有効であることを示し、手や手術器具、術野へフェノール噴霧しながら手術を行う「リスター法」を考案するに至ります。これはその後リスターの代名詞となりヨーロッパ諸国に広がっていきました。このリスター法の拡大には、フランスのルイ・パスツール(1822〜1895)などによって確立された「細菌学」が強力な後押しとなりました。リスターの主張は、細菌学者らによって理論的裏付けがなされ、より信頼のおけるものとなっていったんですね。

そして1883年、彼はヴィクトリア女王からナイトの爵位をさずかりました。リスターの人生は、ゼンメルワイスとは対照的に輝かしい栄光と賞賛に満ちていました。リスターにより確立された消毒法によって、外科手術は「危険な賭け」から「安全で十分な根拠をもつ科学」に変わったのであります。

ジョゼフ・リスター。彼の功績は姿を変えて現代にも存在しています。そう、あなたの家にも。

マウスウォッシュで有名な市販薬リステリン、これはリスターの功績に敬意を示した開発者の思いが込められているのです。

ということで今回はここまで。有益だと感じられましたらぜひチャンネル登録、高評価をお願いします。

それではまた。