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哲学と宗教の歴史2

教養レディオです。哲学と宗教の歴史第3回目となります。最後までご覧頂くためにぜひチャンネル登録をお願いします。

紀元前5世紀頃、世界中で同時多発的に起こった知の爆発。それはまずギリシャで起こりましたが、中国、インドでも起こったのです。

中国においては、孔子、墨子という思想家を生み、インドではブッダ、マハーヴィーラを生みました。彼らが活躍した時期を比較しますと、孔子はソクラテスよりも80年ほど年長で、墨子はソクラテスとほぼ同時代です。そしてブッダとマハーヴィーラは孔子とほぼ同時代です。ただし、ブッダとマハーヴィーラは、生没年を100年ほど後に見る説もあります。

まず古代中国の動乱期を生きた孔子、墨子について解説します。文字資料で実在が確認できる中国最古の王朝は、殷です。この殷を滅ぼしたのが周です。殷が周に滅ぼされたのは紀元前1000年頃のことです。当時の中国にはギリシャの都市国家のように、黄河の中流から下流にかけて、邑(ゆう)と呼ばれる集落が200〜300存在していました。殷はこれら集落の上に君臨していた王国でした。殷を滅ぼした周は、自らの一族に、服従した集落を領地として分け与えました。その後は世襲制によって集落を統治したのです。中国全土に誕生したこれらの血縁関係を基本とする支配者を諸侯と呼びます。諸侯たちは、周王室との血縁関係の程度や、領地の大小によって公侯伯子男の5つのランクが授けられたのです。爵位ともいえますね。ランク分けされた諸侯たちは、王室から与えられた領地への代償として、王に対して貢物を納め、軍事奉仕を行う義務がありました。このように、王室との血縁関係をベースとした封建的支配体制がつくられました。しかし周の支配体制は時を経るに従って、王室と諸侯との血縁関係が希薄となり、諸侯の自立傾向が強まっていきました。さらに北西の草原地帯では異民族の勢力が増大し、ついに紀元前771年、異民族が都に侵入しました。周王室は都を捨てて東へ逃れ、都市機能も東に移しました。この事件を境に、建国から異民族の侵入までを西周、東へ都を移してからは東周と呼びます。この事件によって周の国力は弱体化し、相対的に各地の諸侯の勢力は強まり、中国は不安定な動乱の時代に入ります。周が東に都を移した時から、秦が中国を統一するまでの550年間を春秋戦国時代と呼びます。

各地の諸侯たちは同盟を組むことで武力を増強していきましたが、それでも王を名乗ることはせず周の統治を暗に認めていました。それは現実的な問題として、同盟を組んで武力を増強しても周に匹敵する力を持てなかったことが理由でしょう。当時はまだ鉄製の農機具が普及していなかったので農業は非効率なうえ生産性も低く、どの諸侯も他を圧倒する強国になれなかったのです。しかし紀元前5世紀前後から、地球の温暖化が始まりました。これとほぼ同時期に鉄製の農機具が普及し、一気に農業の生産性が高まりました。当然人口も増え、お金もちも生まれます。これが諸国の国力増強と知の爆発につながりました。同時に、各地の有力な諸侯同士が覇権をめぐり武力衝突が頻発する時代へと突入したのです。こうした動乱の時代に孔子は生まれました。

孔子が説いた思想は儒教と呼ばれ、その内容は礼、そして仁です。社会秩序を保つための生活規範である礼儀が大切なんだ。そして自分の欲望を克服し、他人を思いやる仁愛が大切なんだと説いたのです。孔子は礼と仁の思想をバックボーンとする政治を実現させようと諸国を渡りましたが、彼を雇う諸侯はどこにもいませんでした。孔子の思想は、人道、人間愛とも呼べると思いますが、動乱の時代、彼の思想をもとに政治を行おうと考えた諸侯はいなかったのです。諸侯たちは次のように考えたことでしょう。「俺も人間愛は大切だと思うよ、部下も農民も愛している。しかしお隣の国が喧嘩を仕掛けてくるんでね。身に降りかかる火の粉は払わなくちゃいかん」結局孔子はどこの諸侯にも相手にされませんでしたが、多くの弟子には恵まれました。孔子はピタゴラスのように、思想家としての教団をつくり、その教祖のような存在になっていきました。孔子はついてきてくれた弟子たちに教育を続けることでその生涯を、終えたのです。

孔子の死後しばらくしてから生まれた思想家が墨子です。孔子以降に登場した思想家や哲学者たちは、自分の知識や学問の成果を諸国に売り込もうと必死でした。また諸国も、そのような知識人を自国強化の為重用した時代でした。その結果、個性的な思想家たちが生まれたわけですが、墨子もその1人です。墨子はまず孔子の教えを学びましたが、多くの疑問を感じたようです。具体的に墨子の思想を検証してみましょう。

孔子は礼と仁を重んじました。しかし仁の根幹となる仁愛の思想は、身分社会の存在を前提としています。また祖先と親を尊敬し、家族を大切にすることを第一とするのが仁愛の精神ですから、裏をかえせば他者への愛は二の次にならざるを得ない思想なのです。墨子はここに疑問を感じました。これは不平等な愛で、真実の愛ではないと指摘したのです。墨子は、人はみな、男も女も貧者も弱者も、等しく人間として尊重されなければならないと説きました。身分社会を前提とした孔子の仁愛に対して、墨子の思想は現代のヒューマニズムと言えるでしょう。墨子は戦国時代の諸侯たちに次のように訴えました。「敵国への愛を重んじて憎しみを捨てよ。そこに平和への道があるはずだ」このような主張をする墨子は、当然戦争反対でした。しかし彼は反戦とは言わず、非攻という考え方を主張しました。

誰かが畑から野菜を盗めば、その人は非難されますし、誰かが誰かを殺害すれば犯罪であり当然非難されます。それらは不正義であると。しかし国が他国を侵略し何百人何千人殺したとしても誰もそれを不正義とは言わない。むしろ祖国の利益になる正義だと称賛します。しかしその行為は愛を失った行為なんだと墨子は言います。他者の財産を盗み取ることの延長線上に殺人や戦争があるのだ。それは自己の利益のために他者を攻めることに起因しているのだから、攻める行為を封印せよと墨子は主張したのです。しかしこちらから攻めなくても、向こうから攻めてくることもありますよね、その時はどうするか。墨子は徹底的に守り抜けと説きました。理不尽な攻撃者とは徹底的に戦えと教えたのです。現代の反戦!戦争反対!やられてもやり返さない!というような日和見的な平和主義ではなく、それよりは若干現実的な非攻を主張したんですね。

墨子は、貧しく生きよ、との教えも説きました。衣服は暑さ寒さから体を守るために着るのが目的であって過度な装飾は不要だとしました。船や車も移動という目的をはたすための機能に徹し、贅沢な設備は廃するべきだとしました。これらの道理と同様、国を治めるための財産も合理的に無駄なく使用すべきだと説きました。墨子は政治でも人々の生活においても節約の思想が大切だとしたのです。しかしながら、ほとんどの人は目先の利益に捉われることがほとんどです。森が荒れ果てても、川が氾濫しても、よほど事態が深刻化しない限り、経済的な成長を重視します。人々は節約の思想を重視する墨子の教団にたいして、「清く正しく貧しく生きよといわれても、そりゃ正しいことだとは思うけど、節約ばっかりじゃ息が詰まるよ。墨子さんに政治を任せるのはちょっとなー」と思ったことでしょう。

乱世の時代にあって、孔子は体制を批判するのではなく、礼儀と仁愛を政治家に求め社会を変えようとしました。その孔子が亡くなってから80年後、墨子が登場しました。世間では孔子の教えを継承した人達が相変わらず礼儀と仁愛が政治には必要だと言い続けています。しかし世の中は全然良くならないじゃないか、戦も拡大を続けているじゃないか、孔子の教えは間違っているんだよ!と考えた墨子は、孔子とは違い反体制的な考えに流れていったのです。やがて戦国の世が秦の始皇帝によって統一されたとき、墨子の教団はそのほとんどが消滅してしまいました。反体制的な墨子の思想は許されざる存在だったのでしょう、弾圧の対象となりやすかったのだと思います。

知の爆発の時代、インドではブッダが開いた仏教とマハーヴィーラが開いたジャイナ教が登場します。ブッダは孔子とほぼ同時代の人物です。現在ではネパール領となっている、ヒマラヤ山脈に近いシャカ族の土地カピラバストゥで、王族の子として生まれました。成人して結婚したブッダでしたが、29歳の時に妻子を捨て、出家しました。生老病死という4つの人生の苦悩を解決しようとしたのが理由であるといわれています。ブッダと同じ時代にマハーヴィーラも誕生しました。彼は豪族の子として生まれています。彼も結婚していましたが、30歳頃出家し、苦行と瞑想の日々を過ごしました。

当時のインドの宗教は、バラモン教が中心でした。バラモン教では人々を4つの階層に分けました。いわゆるカースト制ですね。上から順に、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラというピラミッド形の身分制度が敷かれていました。ピラミッドの最上位に君臨するバラモンは司祭者階級、その次がクシャトリヤと呼ばれる王侯、貴族、そしてヴァイシャが一般市民、シュードラが奴隷です。バラモン教と言われるほどですから、この宗教では最上位のバラモンが圧倒的な権威を持ち人々の上に君臨していました。バラモンは司祭達であり、神々とのコミュニケーションを図ることができる権利は彼らだけが持っていました。しかしブッダやマハーヴィーラが出家した頃のインドでは、バラモンの権力に対する疑念がもたれるようになってきます。知の爆発によって生まれたお金もち達が、バラモンの権威に反発するようになってきたのです。

ガンジス川のほとりでは、お金持ち達が使用人を使って、牛に鋤を引かせて田畑を耕し、資産を増やしていました。牛は彼らにとっては現代のトラクターのようなものです。そこにバラモンがやってきて、農業に必要な牛を持っていってしまうのです。それは次のようなやりとりです。「これからお祭りをやるから、牛を持っていくぞ。牛を焼いて神様に捧げるのだ。じゃあ牛は持っていくぞ」「勘弁してくださいよ、よく働く牛なんですよ、殺さないでくださいよ」「神様がお前の牛を欲しておられるのだ。お前は神様に反抗するのか、けしからんぞ」バラモン教の教えでは、人は死後、煙とともに空に舞い上がり祖先の霊が暮らす別世界に行くと信じられていました。そのせいか、バラモン達は儀式や祭典があると必ずと言っていいほど大量の生贄を捧げるのです。特に、牛を焼くのが定番でした。しかし神に捧げるのは匂いと煙だけで、肉はバラモン達が食べてしまうのです。繰り返される牛の調達に、お金もち達は頭にきていました。「いつもいつも大切な牛を持っていきやがって。でもなぁ神様に反抗するのかと言われると何も言い返せないんだよな」

そこに登場したのがブッダとマハーヴィーラでした。ブッダは無益な殺生はするなと教えていましたし、マハーヴィーラが開いたジャイナ教ではもっと過激で、何があっても絶対に殺すことはいけないと教えていたのです。この2人の教えにお金もち達は飛びつきました。バラモンが畑にやってきて牛を持っていこうとしても拒否する理由ができたのです。「私は仏教徒です。動物を殺すことは私達の教えでは禁じられています。牛をお渡しすることはできません、お引き取りください」こう反論されてはバラモンも引き下がらざるを得ませんでした。こうしてインドの大都市部ではお金持ちの多くが仏教徒やジャイナ教の信者になったのです。その結果都市部を追われたバラモン教は地方へ流れざるを得ませんでした。バラモン教はこの経験から、インドの土着的な宗教観を取り入れて、もっとわかりやすく大衆向けの教えに変化していきました。それがヒンドゥー教です。現在ではインドにおける多数派がヒンドゥー教の信者となっています。現代のインドでは牛が聖なる生き物とされていますが、そのきっかけが先ほどのエピソードだと言われています。牛を殺すなという声があまりに強かったために、誰もが牛を食べなくなり、いつのまにか牛が聖なる生き物になっていった、というのが有力な設なのです。

ブッダもマハーヴィーラも、その教義の根本にあるのは輪廻転生からの解脱でした。 人は死後、あの世にいき、またこの世に生まれ変わる。そしてまた死を迎え、また生まれ変わる。それは永遠に繰り返される。しかし人生には苦痛が伴います。悩みがあり、病があり、必ず年老いて死に至る。輪廻転生が永遠ならば、苦しみもまた永遠、この永遠の苦しみのサイクルから抜け出すことが解脱なのです。ゾロアスター教では、誕生から死に向かう一直線の時間軸であり、始まりと終わりがあります。天地創造で始まる世界と、最後の審判。正しく生きたものだけが天国にいけるとゾロアスター教は説きました。では輪廻転生のように永遠のサイクルの中でどうすれば救われるのか。当時のインドでは、次のように信じられていました。現世は苦しくてもまじめに正しく生きていれば、来世ではクシャトリヤになれるかもしれない。悪いことばかりしていると来世ではゴキブリに生まれてくるかもしれない。だから善行を積んで生きなさい。よい来世がきっとくる。その教えを信じることで心に安らぎを得て、インドの庶民は生活していました。いわば、輪廻転生の考えが、カースト制を支えていたのです。しかし来世でクシャトリヤに生まれ変われるがどうかは、神のさじ加減ひとつです。虫ケラにら生まれ変わるかもしれない恐怖に怯えて死んでいくのも大変ですよね。それが輪廻転生で永遠に続くのだからとても大変です。そんな生き方は嫌だ、この苦しみのサイクルから抜け出すことはできないのだろうか。このような疑問を抱いたのは、生活に余裕のある知識階級が中心だったことでしょう。日々の生活に精一杯の平民たちには輪廻や解脱など考える余裕もありません。疑問を抱いた人達にたいして、輪廻転生の苦しみから抜け出す方法をブッダは説いたのです。

ブッダが人々に説いたのは、八正道を実践することでした。八正道とは8つの基本的修行のことで、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定をさします。小難しそうに聞こえますが、わかりやすく説明すると、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想のことです。守べき戒律は守り、正しい生活を送り、正しく考え正しく行動せよと言っているのです。これは決して断食や苦行を強いているわけではありません。そもそもブッダは極端な修行には否定的な立場です。むしろ、日々の生活の中で正しい行いを継続することが難しく、それを実行する強い意思こそが、人を輪廻転生の苦しみから抜けだせる人格に導くのだと教えたのです。

一方マハーヴィーラの始めたジャイナ教は、過酷な苦行と瞑想に重点をおいています。ジャイナ教でもっとも強調されているのは不殺生、アヒンサーです。出家したジャイナ教徒は、五つの戒律を遵守しなければなりません。それは不殺生、嘘をつかない、盗みを行わない、性的行為を一切行わない、何も所有しない、の五つです。特に不殺生の戒律は最も重要で、出家者は細心の注意を払い、この戒律を遵守します。宗派によっては、空気中の小さな生物を殺さぬために、口元を布で覆うそうです。あるとき異教徒が飲み水の中にいる微生物を顕微鏡でジャイナ教徒に見せたところ、飲み水に生き物が溢れていることを知ったジャイナ教徒は、水を飲むよりも衰弱して死ぬことを選んだというエピソードもあります。これはジャイナ教において、不殺生を遵守する最良の方法が断食だとされているからです。さらに、断食によって死ぬことは、最も理想的な死に方だとされていることも関係していることでしょう。ジャイナ教は現在でも、インドで500万人を超える信者を抱えています。

ということで今回はここまで。さらに教養を深めるために、ぜひチャンネル登録をお願いします。次の動画でお会いしましょう、それではまた。

 

 

教養レディオです。哲学と宗教の歴史第4回目は、ヘレニズム時代のギリシャと中国で哲学がどう発展したかを解説します。解説に入る前に、ぜひチャンネル登録をお願いします。それではいきましょう!

プラトンやアリストテレスが活躍した時代は、ギリシャ文化の中心だった都市国家アテナイが、ペロポネソス戦争で敗北し、さらにギリシャ全体がマケドニアに制圧された時代でした。アテナイはかつての黄金時代が嘘のように衰退します。しかしプラトンが創設したアカデメイア、アリストテレスが創設したリュケイオンは存続していました。ヘレニズム時代に入ると、4大学派と後世に呼ばれることとなる哲学が隆盛を極めます。プラトンのアカデメイア、アリストテレスのリュケイオン、そしてエピクロス派とストア派の4つです。

ヘレニズム時代というのは、紀元前330年からおよそ300年間の期間のことで、マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によって築かれた大帝国から始まり、エジプト王国が滅亡することで終わりを迎えた時代です。東西にまたがる大帝国は、ギリシャとペルシャという異なる文化が混ざりあう土壌を形成し、その結果ヘレニズム文化を生み出しました。アレクサンドロス大王は、東へ進軍していく過程で数多くの都市を建設しました。それらの都市はすべてアレクサンドリアと名づけられ、今日まで残る代表的な存在が、エジプトのアレクサンドリアです。アレクサンドロス大王はそれらの新興都市にギリシャ人を住まわせましたが。これによってギリシャ本土の人口は減少しました。このことはギリシャの衰退に拍車をかけてしまったのです。ヘレニズム時代、東方の新興都市へ散らばったギリシャ人たちでしたが、この時代どのような哲学が登場したのでしょうか。

ヘレニズム時代に起こった哲学で代表的なのがエピクロス派とストア派です。エピクロス派の創始者エピクロスは、アカデメイア、リュケイオンで学びました。しかしながら彼の思想はデモクリトスの影響を強く受けています。万物の根源は原子であるとしたデモクリトスの唯物論に属する人物なのです。唯物論というのは広い意味を持ち、その文脈によってさまざまな意味あいをもちますが、簡単に言うと人の心や精神の根源は物質にあるという考え方のことです。唯物論の対義語は唯心論、または観念論であり、プラトンのイデア論などとは対象的な考え方になります。エピクロスは快楽主義を説きました。ここでいう快楽とは、お酒に飲まれたり、美しい女性に心を奪われることではありません。むしろその真逆で、身体的苦痛を感じず、精神的に不安のない穏やかな状態のことを快楽と捉えているのです。エピクロス派ではこの精神的に穏やかな状態のことをアタラクシアと呼び、アタラクシアを実現する人生こそが幸福なのだと教えているのです。しかし人生には多くの誘惑があります。贅沢な食事や美味しいお酒、心惹かれる異性、お金もちになりたい、などの誘惑です。人の心には、これらの誘惑に心惹かれてしまうパトスがあり、このパトスに精神を脅かされる機会を断つのだとエピクロスは説きました。パトスとはパッションの語源であり、激情などの感情的な精神を表現する言葉です。エピクロスは、人生においてアタラクシアを実現するためには、禁欲的に生きねばならない、しかし世の中には誘惑が多すぎる、世間から隠れて生きよ、と説きました。物質的充足は苦しいことなのだ、精神が穏やかであることが快楽なのだ、というのがエピクロス派の教えなのです。

ストア派の創始者はゼノンです。ゼノンはアテナイの広場にあるストア・ポイキレという場所で講義をしていたことからストア派と呼ばれりようになりました。ストア派の内容は多岐の分野に渡り、思考の展開も難解ですので、エピクロス派との比較で解説していきます。

ストア派の思想の中心には、エピクロス派と同様、いかにして心の平穏を求めるか、という命題があったことが判明しています。エピクロスの哲学と似ているように思いますが、実はかなり違うものです。エピクロスはパトスから遠ざかることで精神的な快楽を追求しました。いわば誘惑から遠ざかれば自動的に心の平穏が得られるような考え方です。それに対してストア派では、幸福とは徳を追求した結果得られる、パトスに動揺しない心に至ることだと考えました。その状態をアパテイアと呼びました。つまりストア派では、誘惑から逃げるだけでは心の平穏は得られず、人生の徳を実践することで結果的に得られるものだと考えたのです。さて、ここでストア派のいう徳とはなんでしょうか。ストア派は知恵、勇気、正義、節制の4つを最大の徳と考えました。徳を実践する、ということは悪徳と戦うことであり、悪徳とは無思慮、臆病、不正、放埒です。さらに最大の悪徳は、人間が守らなければならない4つの徳が存在することを知らないことだと説きました。徳を学ぶために知識を磨き、それを実践して生きることで初めて心の平穏が得られるのだ、それがアパテイアでなのだ、としたのです。エピクロスのアタラクシアは隠れて生きよ、でしたが、これとは対局にある思想であることがわかりますね。

さらにストア派ではこう考えます。人間は理性、ロゴスを与えられ産まれてくる。身分に関係なく、誰でもロゴスを持っているのだから、全ての人間が意識的に徳を追求することが可能なのだ。この世界にわれわれが生まれたということは、自分や自分の両親、さらにその両親も自然と世界とも繋がっているからであり、自然は大河の流れのように世界を作り未来へと流れる。その悠久の流れの中でわれわれは生まれたのだから、そのように与えられた自分の人生を認め、堂々と生きればよい。知恵を絞り、悪を退け、徳を実践し、心の平穏を得るために人間はロゴスを持っているのだ。こなロゴスの力で心に波風をたてるパトスに打ち勝て。それが幸福に繋がるのだ。自らの運命を受け入れろ。それを真正面から受け止めて、なおも積極的に生きるのだ。

ストア派の思想では、人間はみな等しく自然の秩序の中で生きていると考えました。つまり世界の人間はみな平等であると考えたのです。世界主義、コスモポリタンの思想です。

ストア派のような生き方を実践するには、強い意思が必要ですよね。貧しく生まれ、日々の暮らしが精一杯な人達が、アパテイアに至るよう徳を積めと言われても、誰しもがそれほどの強い意志を持てるものでもありません。エピクロス派のもとには、不幸な運命を背負った女性達が学びに来ていたと言われています。あまりに貧しく、あまりに苦しい人生を送る人々にとっては、エピクロスの説いた隠れて生きよという思想は、救いになったのかもしれません。対してストア派の思想は、指導者層の学問として受け入れられました。ローマが帝政時代に入ると、ローマのリーダー達の嗜みとなっていったのです。ローマの身分ある家柄に生まれた人達は、自分の運命を認めて堂々と生き、理性で感情を抑え、徳を積んでゆくことに積極的に取り組みました。それが民衆の上に立つ自らの責務だと考えたのです。ローマ帝国の指導者層のほとんどが、ストア派の考え方を取り入れていたようです。そのためローマ帝国では酒池肉林に走るタイプの指導者が少なく、ローマ帝国が長く存続できたのには、ストア派の思想が大きく影響していたのではないでしょうか。

ヘレニズム時代の中国においては、諸子百家全盛の時代を迎えます。殷を滅ぼした周が異民族に追われ東へ遷都して以降、周の国力は衰退し、やがて諸侯が力を持ち覇権を巡る動乱の時代となります。春秋戦国時代です。孔子を始めとする思想家たちは、諸侯へ政治顧問として雇い入れて貰えるよう自らの知識や学問を売り込みました。多くの知識人が誕生した時代だったのです。このような大志を抱いた知識人たちのことを、後世ではまとめて諸子百家と呼びました。諸子とはさまざまな思想家、百家とは学派のことです。つまり諸子百家とは様々な思想家による様々な学派、という意味合いとなります。主な諸子百家としては、儒家、墨家、法家、名家、道家、兵家、陰陽家です。

諸子百家時代の儒家として登場したのが孟子と荀子です。2人の主張した性善説と性悪説について解説します。孟子が主張した性善説とは、人間はもともと立派な本性、善の本性を持っているのだから、きちんと教育すればみんなが主体的に努力するようになる、という考え方です。これに対し異を唱えたのが荀子でした。荀子は孟子の性善説に対し、性悪説を唱えました。人間はもともとそれほど賢くはない。自分から学ぼうとはしない。だから社会システムや制度をうまく作ってやって、強制的に教育しないといけないんだと考えたのです。

この性善説と性悪説が語られるとき、人間の本質はどっちなのかという流れで考えるよりも、教育に大切なのは個人の主体的な努力なのか、それとも社会システムとしての教育環境なのか、それは世代ごとに使い分けるべきなのかというような議論が重要だと思います。さらに性善説と性悪説は相反する考え方のようにも思えますが、儒家の中での2つの思想は共存しうるものです。どういうことかというと、そもそも孟子の性善説というのは、自分と同じ知識階級を対象としたものだからです。もともと知識はあるのだから、努力して学べばそれでOKという意見なのです。対して荀子は一般大衆を対象として考えました。字の読み書きができない人間に自発的に努力せよと諭してもどうしようもありません。だから半ば強制的に勉強させる環境を作れとの意見なのです。したがって性善説と性悪説は階層の異なる人々の教育について言及しているのであって、2つの説は完全に相反するものではないのです。

孟子は易姓革命論を説きました。孟子が生きた時代、神様のことを天と呼んでいましたが、そんな時代に生きた孟子は、国を統治するということを次のように考えました。

国を治めるべき運命を持つ人格者には、天からの天命が下るのだ、おまえが王となり国を治めよと。しかしその王が人民を苦しめるような愚かな政治を行えば、天は自然災害をもって警告する、それでもなお愚かな政治を続けるならば、天は人民に天命を下すのだ、下克上を起こせと。その結果愚かな王は人民に引きずり下ろされ新たな人物が王座につく。天はこのようにして良き政治を実現させるのだ。

天命によって王朝が変わり王の姓が変わる、という思想なので易姓革命論と呼ばれるようになったのです。このような思想のため、全王朝の君主は必要以上に暴君として記録されるようになりました。易姓革命論を掲げ全王朝を打倒する状況があった場合、新王朝の君主こそが名君であり、前王朝の君主は暴君とされるのは理解できますね。「愚かな政治を行う君主を打倒しなければならない!これは天命なのだ!虐げられている民衆たちよ、立ち上がれ!今こそ易姓革命のときだ!」

孟子が生んだ易姓革命論ですが、あー昔そんなのがあったのね、と感じると思いますが、現代でも起こっていますよね。韓国大統領です。韓国の大統領は、政権が変わるたびに、前大統領が逮捕されたり自殺に追い込まれたり悲惨な最期を迎えますよね。これは易姓革命論に基づき新大統領の正統性を保つために、前大統領を徹底的に否定しなければならないからです。日本社会と韓国社会の文化がいかに違うのかがわかりますよね。

孟子に続く荀子の思想は、孟子とは違い、合理的な思考を持っていました。易姓革命論では愚かな君主には自然災害が訪れると教えていましたが、荀子は流星も嵐も単なる自然現象に過ぎないと考えていました。雨乞いの儀式のあと雨が降ったと言うが、儀式をしなくても降る時は降る。たまたま雨乞いの儀式と雨が重なっただけだと考えたのです。さらに荀子は、人間が生まれながらに賢い存在などであるはずがないと考えました。むしろ人間にはそれほどの主体性はなく、世間の誘惑に影響されやすい存在なんだと考えていました。それゆえ人間は学問をおさめより良い存在になれるよう一生努力を続けなければならないと説いたのです。

さらに荀子の弟子であった韓非は、法家を完成させた人物として著名です。韓非は、民衆に道徳性を期待することはそもそも間違っていると考えました。法治主義を説いたのです。我々が住む日本も法治国家ですよね。徳を持って国を納めるとした儒家の思想とは異なり、法と罰によって国家を納めるべしという思想でした。これはつまり性悪説にのっとった考え方であることがわかりますよね。諸子百家の思想に基づけば、現代日本は性悪説にのっとった法治国家、ということになります。なお法家の思想は、秦の始皇帝による国家統一の理念とされました。なお紀元前213年、法家思想を掲げた秦によって、焚書坑儒が行われました。儒家などの書物は禁書として廃棄され、始皇帝の政治に批判的な学者は生き埋めにされたのです。

孟子と同じ時代に生きた思想家が荘子です。荘子の思想は道家、または老荘思想と呼ばれました。無為自然を一番初めに説いたのは老子であり、老子は孔子と同時代の人物とされていますが、生没年など詳細は不明です。荘子は、孟子が教育や理想の政治を語っているとき、平然と無為自然を説きました。人間はもっと心をのびのびと自由に遊んでいればいいのだ、人間はいい加減な生き物なのだから、自然に従って無為に生きれば良い、と考えたのです。荘子には次のようなエピソードがあります。

「荘子、あなたを我が国に宰相として迎え入れたい。このように礼金も用意してある。いかがか」「実にたいそうな礼金、宰相となれば最高の地位でしょうな。しかし・・・祭りで生贄となる牛を御覧なさい。美食を与えられ綺麗に飾られてはいますが、最後は祭壇にひかれていく。生贄として。そのとき野放しの豚になりたいと願っても、もう手遅れなのですよ。私は不自由で贅沢に生きるよりも、どぶの中で遊ぶ豚でありたい。気ままに暮らしたいのです」

荘子の思想が大流行するのは荘子の時代から600年以上後のことです。3世紀後半は政治抗争が激化した時代でした。官僚が立場や命を保つのは難しい時代だったのです。このことからあえて世俗から身を引くことで保身を図るという荘子の考え方が大流行したのです。

諸子百家の思想は、中国の社会を形成するにあたって大きな影響を及ぼしています。儒家は礼や仁や徳を根幹に置いています。君主は民衆を愛し、王にふさわしい人物となれるよう努力せよと教えました。このように儒家は支配者の哲学でありました。ストア派の思想と似ていますよね。一方で老荘思想は、頑張るだけが人生ではない、自然に任せて悠々と生きろ、心の遊びを大切にせよ、と説きました。それは世俗から隠れて生きるエピクロスの考え方と少しだけ似ています。さらに法家の思想があります。政治の建前の理論としては儒家の教えがありますが、政治の実際の運営は法律に則り運営していくわけです。中国では秦の始皇帝が法家の思想を基軸に据え中央集権国家を樹立して以来、実に2000年を超えてもなお、法を軸とした国家運営のデザインには揺るぎないものがあります。一般大衆は建前としての儒家の教えに従って祖先や家族を大切にし、無法者は法で裁かれます。そして儒家や法家の思想が真面目すぎてついていけないと思う知識階級には逃げ道として老荘思想があったわけです。このように諸子百家の思想は、共存が可能であり、中国社会の人々がそれぞれに心寄せられる思想をうまく準備したように感じられます。しかしながら、いつの時代であっても中国を体制的に取り仕切っていたのは法家にのっとった法の支配、そして表向きは儒家にのっとった道徳的規範だったのですね。

ということで今回はここまで。有益と感じられましたらぜひチャンネル登録をお願いいたします。次の動画でお会いしましょう、それではまた。