未分類

医学の歴史【1】医学の始まり

hippocrates

こんにちは教養レディオです。

今回は医学の歴史を見て行こうと思います。しかし、医学の歴史なんて勉強してなんの得があるんだよ、と多くの方が感じると思います。

しかし私は価値観が多様化するこの時代のなかで、自分のアイデンティティを見出したいという思いから、歴史を学ぼうと思いました。マスメディアから常時発信されている提案された価値観を選ぶだけではなく、自分自身の考えを持ちたいと願うようになりました。

歴史という人間の営みを知ることで、私自身の立ち位置が見えてくるんじゃないか、それが自分を知る第一歩だと考え、歴史に興味を持ちました。歴史といっても単なる世界史ではなく、現代において人々の生活に密接に関わる様々なものの歴史について知りたいという思いがあります。私たちが生きるこの世界を形づくる文化やテクノロジー、これらを知れば、自分がどういう世界に生きているかがわかるんじゃないかと思いました。

とはいえ歴史を学ぶには相当な時間とエネルギーを使います。今どき貴重な時間を勉強に費やすなんてハードル高いよ、という方多いと思います。歴史を第三者に伝える過程でより濃く私自身にインプットするため、そして何より多くの人が聞き流して頂けたら幸い、という思いから発信しています。ぜひ通勤時間や家事の合間にご活用ください。

歴史を知って、自分を知る。そういうスタンスです。では早速いきましょう。

冒頭でも申し上げましたが、今回は医学の歴史を知ろうと思います。医療とは、いったいどのように発展してきたのでしょうか。現代人のわれわれが享受している医療のかたちはどのように成立したのでしょうか。

われわれの生活に欠かすことのできない現代医療の源流は、紀元前の古代ギリシャにまで遡ります。日本における医療は、東洋医学がメインだった時代が長く、5〜6世紀ころに中国からの仏教伝来とともに日本に伝えられ、日本独自の発展を遂げつつ、幕末期までの長きに渡り親しまれてきました。しかし日本は東洋なのに、なぜ現代日本では西洋医学が主流なのでしょうか。

東洋医学伝来から幕末期まで、日本の医療は東洋医学が主流でした。江戸時代について語れば、日本独自に発展した「漢方」が医療の主流でした。医師が自宅療養する病人のところへ行き漢方を処方するというのが当時の医療だったのです。なぜ現代日本の医療が西洋医学であるかということは、当時の世界情勢が大きく関わっています。激動の時代を経た日本が変革を迫られ、国家としての行く先を大きく転換した時期がありました。

それが明治維新です。幕末期、欧米列強は新しい市場を求めて日本に何度も何度も開国を要求しました。武力を誇示し開国を迫る欧米列強に対し、日本は大いに混乱しました。代表的なのはペリーの黒船来航です。現代でも、圧倒的影響力をもつ外来種が在来種を駆逐しようとする様を、黒船と表現しますよね。

そもそも、日本と西洋諸国の本格的な貿易は1543年のポルトガル人による鉄砲伝来から始まります。しかし貿易に伴っておこなわれたキリスト教の布教活動がのちの鎖国につながっていきます。織田信長は異教徒に寛容でしたが、豊臣秀吉は異教徒への徹底的な弾圧をおこないました。それが江戸幕府による鎖国政策につながっていきます。この鎖国政策は幕末の日米和親条約の締結まで続きます。日本国内におけるさまざまな政策が、諸外国の影響を大いに受けていることがわかりますね。

ちなみにキリスト教の布教活動は、1543年の鉄砲伝来から始まり、その後の宣教師としてはフランシスコ・ザビエルが有名ですが、彼が布教活動をしに日本に訪れたのには大きな理由があるんです。当時のヨーロッパでは同じキリスト教の中でカトリック、プロテスタントという宗派間のシェアの取り合い合戦が行われていました。シェアの拡大を求めて世界中に送り込まれた宣教師たちと、国家財政の拡大を狙う植民地獲得政策を目的に世界中に旅立った、それが大航海時代です。なお大航海時代に世界の覇権を握っていたのはスペインとポルトガルです。ザビエルはポルトガルの宣教師でした。日本においてもキリスト教信者が多く生まれましたが、これにはザビエルらの適応主義と呼ばれる宣教方法が効果を上げたと見られています。適応主義とは、ヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、その国の文化に自分たちを合わせることで浸透力を高めたという極めて画期的な方法でした。しかしキリスト教内部での会派の対立があったことや、イギリスやオランダなどの非カトリック国家によるカトリックに対するネガティブキャンペーンが行われていたこと、さらに宣教が植民地政策の一環であるとみなされたこと、そしてカトリック教会という国外の組織に国民がコントロールされてしまうのではないか、という不安要素などが絡み合い、日本におけるキリスト教弾圧、鎖国政策が行われたと言われています。

ちょっと脱線しましたが、さあ次は明治時代にはいります。大政奉還を経て、日本の新たな指導者となった明治政府は、近代化を推し進めることで列強による植民地化を防ごうとしました。その近代化政策の中で、明治7年(1874)、文部省発布の「医制」が制定されました。明治初期、西洋医学の教育は一部の学校でおこなわれてはいたのですが、当時、国内の医師のほとんどは「漢方医」でした。西洋医学の知識を持つ医師というのは非常に少なかったんです。医療関係者については免許制度もなく、技能も低いと言わざるをえませんでした。そのような状況のため衛生観念も希薄であり、当時の国民の衛生状態は最悪。そのような状況を踏まえ、このままではイカン、早くこの状況を改善せなばならない、ということで、医療・衛生に関する制度を整備するため、明治政府が「医制」を制定、この瞬間から西洋近代医学をベースとした日本の医療が幕を開ける、という流れがあったのです。

日本の歴史を整理しますと、1543年のポルトガル人の鉄砲伝来から始まったキリスト教の布教活動、これに対して国を統制するため異文化の排斥、つまりキリスト教の弾圧と鎖国政策が始まりました。鎖国状態であった日本に対して市場開拓を目論む欧米列強が武力を誇示し開国を迫ります。混乱の中、日本は諸外国との貿易を開始し、明治時代に至り、近代化政策の一部として医制が制定された、という流れですね。

さて、現代日本の医療が西洋医学をベースとしていることはご理解いただけたと思います。ではその西洋医学なるものの源流はどこにあるのか?そしてわれわれが知る医療というものが、どのように発展を遂げ今に至るのか?今回はその歴史をご紹介させていただきます。こちらのスライドをご覧ください。

【先史時代】経験的医療、呪術的医療

【四大文明時代】呪術的医療、体液病理説

【紀元前5世紀頃】ヒポクラテスによる医療に対する倫理性と科学性の芽生え。

【2世紀】ガレノス医学と宗教の融合。16世期にいたるまで、医学の発展が停滞。

【16世紀】写実的解剖学書「ファブリカ」出版。医学発展の停滞の終わり。

【17世紀】顕微鏡の発明。細菌学、微生物学の始まり。

【18世紀】種痘法の開発。病理解剖学の始まり。

【19世紀】全身麻酔法の発見。消毒法の発見。ワクチンの開発。感染症研究の始まり。

【19世紀末】X線の発見。

【20世紀】抗生物質(ペニシリン)の発見。DNAの発見。

先史時代から始まる医療の歴史の中で、「消毒」「病理学」「感染症」という概念そのものが近代に生まれているということに驚きを隠せません。現代医療の恩恵を受けられる我々にとってこんなことは常識であり、わざわざ改めて議論するようなことではありません。しかしこれらの概念は近代以前、存在すらしていませんでした。そして「全身麻酔法」「ワクチン」「抗生物質」も19世紀以降に登場した手法であります。それ以前の時代というのは、致死率の高い感染症がたびたび大流行を起こし、そのたびに数百万〜数千万人という凄まじい数の人が亡くなっています。外科手術は消毒されていない不潔な器具を用いておこなわれ、手術後は現在よりもはるかに高い確率で術野から侵入した細菌により引き起こされる感染症に苦しむ・・・。19世紀以前は実に恐ろしい世界です。

医学の歴史を知ると、ホントに現代に生きていてよかったと思うと同時に、宗教がいかに人類や科学の発展にとって強い影響力を持っていたかもわかりますね。

そして医学にとってもっとも重要なことは、人類が「科学性」を手にしたことで、飛躍的な発展を遂げたということ。西洋医学はまさに科学性によって発展を遂げてきました。

「科学性」とは原因と結果をみちびき、体系化し、それを蓄積していく姿勢そのものです。「神」「悪魔」という超常的な存在に原因や改善を求めず、真理を追求する。医療における「科学性」の芽生えは、古代ギリシャの時代にまで遡ります。

「科学性」の芽生えによって発展の扉を開いた人類が真理を追求し、現在われわれが享受する「現代医療」まで到達する長い道のりを、要点を抑えてざっくりと紹介していきます!

経験的医療(先史時代)

人類誕生とともに医学の歴史は始まります。野生動物を狩りで仕留めたり、木の実を拾って食べたりしていた石器時代において生傷は絶えなかったことでしょう。人々は傷を揉んでみたり、撫でてみたり、薬草を食べてみたりしながら、とりあえずやってみて効果があったものが残り、効果がなかったりかえって害であるものは捨てられていきました。文字の文化が誕生する以前は、親から子へ自らの経験を受け継いでいったものと思われます。こうした経験をもとに原始医療が生まれました。

呪術的医療(先史時代〜)

原始医療の誕生から時は流れ、神、悪魔、精霊といった「超自然」の力を信じ始めた人類。原始宗教の始まりです。(アニミズム、シャーマニズム)宗教や魔術と医療は混然一体となり、呪術師や魔法医、シャーマンなどが登場するようになります。「超自然」に病気の原因や治療を求め始めたのは、こんな時代から既に始まっていたんですね。

四大文明と医療

さらに時は流れ四大文明の時代に入ります。まずメソポタミア文明。世界最古と言われるこの文明においては、すでに職業としての医師が存在していたようです。世界最古の医学書として紀元前2200年頃の粘土板に医学的記述が残されています。そして紀元前18世紀のハンムラビ法典には、医療費の規定や、医療ミスの罰則規定も記されていると言います。紀元前18世期というと、3700年以上も昔です。このハンムラビ法典によると「医者が治療に失敗した場合、両手を切り落とされる」といった規定があり、現代よりはるかに厳しい罰則が課されていたそうです。どの程度の医療ミスでそんな厳しい罰則を受けるのかは分かりませんが、とにかく厳格な法整備がなされていたことが伺えます。

エジプト文明においては、宗教的、魔術的治療とともに、ケシやマンダラゲによる麻酔、加えて止血法、腫瘍切開などの外科的処置も行われており、呪術的医療と合わせて、合理的な治療も行われていた。古代エジプトの医学はやがてギリシャに受け継がれ現代医学の源流となりました。

古代インド医学の原型は、紀元前1500年頃に北方から侵入したアーリア人によって築かれました。インド特有の宇宙哲学や呪術的医療とともに、形成、外傷医療などの外科手術が発達したそうです。

古代中国では独自の東洋医学が芽生えました。中国医学は古墳時代から朝鮮半島を通じて日本に伝えられ、特に仏教伝来以後は日本の原始医療を圧倒し、普及することになります。

現代医学の始祖、医聖ヒポクラテス

hippocrates

ヒポクラテス

四大文明以降の医学の発展は、古代ギリシャの医師ヒポクラテス(紀元前460年〜370年頃)の時代にあります。

ヒポクラテス、皆さん名前くらいは耳にしたことあるという方、多いんじゃないでしょうか。しかし何を成したかを知る人は少ないんじゃないかと思います。

このヒポクラテスは現代において「医学の父」として崇められています。彼の偉大な功績は2つあります。それが医学に「科学性」そして倫理性」をもたらしたこととされています。どういうことかを詳しく説明します。

ヒポクラテスが提唱する学説は「体液病理説」と呼ばれる、古代ギリシャ・古代インドで通説となっていた「全体観」に基づくものでした。「体液病理説」というのは、人間は数種類の体液で構成されており、その体液のバランスが崩れたときに病気になる、という学説です。

「全体観」では、病気を分類する考え方はしません。現代では「病理学」という病気を分類し体系化する学問が存在しますが、「病理解剖学」の基礎が始まるのは18世紀のことです。ヒポクラテスの時代から2000年以上あとのことなんです。「全体観」は「体液病理説」にもとづき人間の身体全体が病気であると考えます。病気は一つであり、患者ごとの症状はさまざまな形で病気があらわれているにすぎない、と考えられていました。

ヒポクラテスの時代、古代ギリシャにおける医学はさまざまな学派が存在しており、その中で「コス学派」と「クニドス学派」の対立構造がありました。「コス学派」とはヒポクラテスの故郷「コス島」の名を冠したヒポクラテスをはじめとする学派であり、病人の観察と記録に重点を置き、衛生環境や医者の身なりに非常に厳格でした。観察と記録は、病人の家族の病歴や居住環境にまで及んでおり、現代における臨床検査の原型とも言えます。病気に対しては「体液病理説」にもとづき人間のもつ自然治癒力を高めるため、良い環境、食事、休養が重要であると考え、病人の予後をもっとも重視したと言われています。

一方「クニドス学派」は診察をもっとも重視し、病人が抱える病気を分類し体系化することに努めました。これはまさに現代における病理学と言えます。コス学派に比べ現代医療に近しいスタンスをとっていたにも関わらず、当時のギリシャの時代、人々に受け入れられたのはヒポクラテスをはじめとするコス学派でした。先進的な知見を持ったクニドス学派が敗北したのには理由があります。当時のギリシャでは人体解剖がタブーとされており、解剖学・生理学が成熟しておらず、病気を特定し分類するための手段が限られていたのです。病気を分類する基礎知識が不足していたため、クニドス学派では誤診が多かったと言われています。人体解剖に対するタブーと病理学を確立するためのテクノロジー不足。このような状況から最終的には「コス学派」が時代の勝者となりました。

ヒポクラテスの時代、ギリシャ各地には医神アスクレピオスという医療の神を祀る神殿が建てられ、治療を求めるものは何日も神殿にこもって神官から儀式的治療をうけていました。われわれ現代人には、祈祷やまじないで病気が治るとは思えませんが、当時はこれが正当な治療と見なされていたのです。

ヒポクラテスはこの祈祷やまじないによる儀式的治療を痛烈に批判しています。ヒポクラテスは決して無神論者ではなかったのですが、次のような主張をしました。「儀式的治療はいかさまだ。病気の治療における無力さを、信仰を隠れ蓑にしてごまかしている」として儀式的治療を否定し、病気の原因は人類の知恵で理解できるはずだと考え、超自然の力に頼った解決にすがることを避けました。さらにヒポクラテスは古代ギリシャで隆盛を誇っていた「哲学」からも医学を開放しようとつとめました。推論と論証ではなく、「現象の観察」から結論を導こうとしました。神秘主義や哲学を排除する、この「科学性」が医療にもたらされたことが、医学にとっての非常に大きな一歩であると言えます。

さらに、現代において医療に携わる人達の基本的教養である、有名な「ヒポクラテスの誓い」があります。これは医療への忠誠、患者に不利益となる振る舞いをしないことなどの「倫理性」を重んじた、医療に携わる者としてのあるべき姿を宣誓するものでした。

この「科学性」と「倫理性」が医学において大切なことを示したヒポクラテスですが、これは現代にいたっても変わらない真理であり、彼は今もなお医学の父として世界中であがめられています。彼が撒いた医学精神は、その後世界中で大輪の花を咲かせることになるのです。

 

四体液説

galenus

ガレノス

ヒポクラテス以後、歴史になお残す著名な医学者といえば、2世紀に活躍したギリシャ人医師ガレノス(129頃〜200頃)と言えましょう。このガレノスこそ、古代ギリシャ・古代インドで提唱されていた体液病理説やそのほかの乱立した諸学派を統合する形で、四体液説を完成させた張本人であります。

四体液説とは、人体を形作るのは四つの体液(つまり血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)であり、全身もしくは局所的に四体液のバランスが崩れた時に病気が発生するとする学説です。体液の乱れが病気を引き起こす証拠は、過剰となった体液が体外に放出されることで観察されるとしています。例えば嘔吐や鼻水、下痢や吐血などですね。鼻水が出ているということは、体の中で粘液が増えすぎている、血を吐いた場合は体の中で血が多すぎるのだ、と考えるわけです。そして四体液説に基づく治療で代表的なのが、意図的に病人の血を抜く瀉血という行為です。

例えばあなたが血を吐いてしまい医者にかかったとしましょう。すると医者は言います。血液が多すぎて、体液バランスが悪いから病気になったんですね。ほら、血を吐いているではありませんか。可哀想に。では治療のため血を抜いておきましょう。次の方どうぞ。となるわけですね。なんと、この瀉血という行為は近代まで効果があると信じられてきました。アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンは、この瀉血のし過ぎで亡くなったと言われています。しかも亡くなった本人が、もっと血を抜いてくれと言っていたそうですから、医療に携わらない人達にまで、瀉血という行為が浸透していたことが窺えます。アメリカ合衆国初期においては、とにかく熱が出たら瀉血、咳が出たら瀉血、下痢をしたら瀉血と言う具合に、とりあえず瀉血しときましょうという感じで頻繁に行われた治療のようです。もちろん瀉血には科学的根拠はありません。

中世ヨーロッパの瀉血

さて、ガレノスによって完成されたこの理論は、のちにヨーロッパ全土を支配するキリスト教的世界観と合致したことで、キリスト教のもつ権威の名のもとに広く受け入れられ、その後実に千数百年もの長きにわたり、西洋医学は進化をやめ凍りつくこととなってしまいます。ヒポクラテスが撒いた「科学性」の芽が出るのは、なんと16世紀まで待たなければなりません。ヒポクラテスに続く科学性の持ち主はいったい誰なのか。

ということで、今回はここまで。有益だと感じられましたら、ぜひチャンネル登録をお願いいたします。

それではまた。
次の記事を見る