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医学の歴史【1】医学の始まり

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なぜ現代日本では西洋医学が主流なのか

今回は医学の歴史を紐といていきます。医療とは、いったいどのように発展してきたのか。現代人のわれわれが享受している医療のかたちはどのように成立したのか。われわれの生活に欠かすことのできない現代医療の源流は、紀元前の古代ギリシャにまで遡ります。日本における医療は、東洋医学が主流であった時代が長く、5世紀〜6世紀ころに中国からの仏教伝来とともに日本に伝えられ、日本独自の発展を遂げつつ、幕末期までの長きに渡り親しまれてきました。しかしひとつの疑問が湧き上がります。

「現代日本では西洋医学が主流でしょ?なぜ日本では、東洋医学が主流じゃないの?日本は西洋じゃなくて東洋じゃないか!」

ごもっともです。5世紀から6世紀の東洋医学伝来から幕末期まで、たしかに東洋医学が日本の医療の主流でした。江戸時代について語れば、日本独自に発展した「漢方」が医療の主流でした。医師が自宅療養する病人のところへ行き、漢方を処方するというのが当時の医療だったのです。なぜ現代日本の医療が西洋医学であるか、ということは世界情勢が大きく関わっていて、激動の時代を経た日本の決断による必然だったのです。時代の大きな波に翻弄されながら、日本が国家としての行く先を大きく転換した時期がありました。

そうです、明治維新ですね。幕末期、欧米列強は新しい市場を求めて日本に何度も開国を要求しました。武力を誇示し開国を迫る欧米列強に対し、日本は大いに混乱しました。そもそも、日本と西洋諸国の本格的な貿易は1543年のポルトガル人による鉄砲伝来から始まります。しかし貿易に伴っておこなわれたキリスト教の布教活動がのちの鎖国につながっていきます。織田信長は異教徒に寛容でしたが、豊臣秀吉は異教徒への徹底的な弾圧をおこない、それが江戸幕府による鎖国政策につながっていきます。この鎖国政策は幕末のペリー黒船来航後まもなくの日米和親条約の締結まで続きます。日本国内におけるさまざまな政策が、諸外国の影響を大いに受けていることがわかりますね。

大政奉還を経て、日本の新たな指導者となった明治政府は、近代化を推し進めることで列強による植民地化を防ごうと邁進したのです。その近代化政策の中で、明治7年(1874)、文部省発布の「医制」が制定されました。明治初期、西洋医学教育は一部の学校でおこなわれてはいたものの、それでもなお国内の医師のほとんどは「漢方医」でした。当時、西洋医学の知識を持つ医師というのは非常に少なく、医療従事者については免許制度もなかったため、医療従事者の技能も高くなかったのです。そのため衛生観念も希薄であり、当時の国民の衛生状態は非常に悪かったようです。そのような状況を踏まえ、医療・衛生全般に関する制度を整備するため、明治政府が「医制」を制定、この瞬間から西洋近代医学をベースとした日本の医療が幕を開ける、という流れがあったのです。

【先史時代】

経験的医療、呪術的医療

【四大文明時代】

呪術的医療、体液病理説

【紀元前5世紀頃】

ヒポクラテスによる医療に対する倫理性と科学性の芽生え。

【2世紀】

ガレノス医学と宗教の融合。16世期にいたるまで、医学の発展が停滞。

【16世紀】

写実的解剖学書「ファブリカ」出版。医学発展の停滞の終わり。

【17世紀】

顕微鏡の発明。細菌学、微生物学の始まり。

【18世紀】

種痘法の開発。病理解剖学の始まり。

【19世紀】

全身麻酔法の発見。消毒法の発見。ワクチンの開発。感染症研究の始まり。

【19世紀末】

X線の発見。

【20世紀】

抗生物質(ペニシリン)の発見。DNAの発見。

上記の歴史を見て驚くのが、「消毒」「病理学」「感染症」という概念そのものが近代に生まれているということです。現代医療の恩恵を受けられる我々にとって常識的なこれらの概念がそれ以前は存在しておらず、「外科手術の際に手や手術器具を洗う」「このような症状は◯◯という病気である」といった考え方すらもそもそも存在していなかったのです。「全身麻酔法」「ワクチン」「抗生物質」も同じく19世紀以降に登場です。それ以前は致死率の高い感染症がたびたび大流行を起こし、そのたびに数百万〜数千万人という凄まじい数の人が亡くなっています。外科手術は消毒されていない不潔な器具を用いておこなわれ、麻酔薬として大麻、アルコールなどを経口摂取。術後は現在よりもはるかに高い確率で、術野から侵入した細菌により引き起こされる感染症に苦しむ・・・。タイムマシンがあったとしても19世紀以前には怖くて行きたくないですね・・・。

医学の歴史を知ると「現代に生きていてよかった!」と思うと同時に、宗教がいかに人類や科学の発展にとって強い影響力を持っていたかもわかります。

そしてもっとも重要なことは、人類が「科学性」を手にしたことで、飛躍的な発展を遂げたということ。

「科学性」とは「原因と結果」をみちびき、体系化し、それを蓄積していく姿勢そのものです。「神」「悪魔」という超常的な存在に原因や改善を求めず、真理を追求する。この「科学性」の芽生えは、古代ギリシャの時代まで遡ります。

「科学性」の芽生えによって発展の扉を開いた人類が真理を追求し、現在われわれが享受する「現代医療」まで到達する長い道のりを、要点を抑えてざっくりと紹介していきます!

経験的医療(先史時代)

人類誕生とともに医学の歴史は始まる。傷をもんだり薬草を食べたりしながら、効果があったものが残り、無効なものは捨てられていった。こうした経験をもとに原始医療が生まれた。

呪術的医療(先史時代〜)

神、悪魔、精霊といった超自然の力を信じ始めた人類。(アニミズム、シャーマニズム)宗教や魔術と医療は一体化し、呪術師や魔法医、シャーマンなどが登場する。この頃より医学と宗教は渾然一体であった。

4代文明と医療

古代メソポタミアでは職業としての医師が存在しており、世界最古の医学書として紀元前2200年頃の粘土板に医学的記述がある。紀元前18世紀のハンムラビ法典には、医療費の規定や、医療ミスの罰則規定も記されており、ハンムラビ法典によると「医者が治療に失敗した場合、両手を切り落とされる」といった規定があり、現代よりはるかに厳しい罰則が課されていた。

古代エジプトにおいては、宗教的、魔術的治療とともに、ケシやマンダラゲによる麻酔、止血法、腫瘍切開などの外科的処置も行われており、呪術的医療と合わせて、合理的な治療も行われていた。古代エジプトの医学はやがてギリシャに受け継がれ現代医学の源流となる。

古代インド医学の原型は、紀元前1500年頃に北方から侵入したアーリア人によって築かれた。インド特有の宇宙哲学や呪術的医療とともに、形成、外傷医療などの外科手術が発達した。

古代中国では独自の東洋医学が芽生えた。中国文明の有史時代は紀元前16世紀の殷王朝に始まるが、それ以前から中国医学の原型は存在していたと伝えられている。紀元前2600年頃の伝説上の皇帝、黄帝が著したと言われる黄帝内経は、中国古代哲学である陰陽説に基づきまとめられた古典医学書であり、何千年もの間、基本医学書とされる。内経には外科的処置の記載はなく、外科に対する認識の低さは中国医学全般にわたっての大きな特徴である。中国医学は古墳時代から朝鮮を通じて日本に伝えられ、特に仏教伝来以後は日本の原始医療を圧倒し、普及することになる。

現代医学の始祖、医聖ヒポクラテス

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ヒポクラテス

ヒポクラテス(紀元前460年〜370年頃)が提唱する学説は「体液病理説」と呼ばれる、古代ギリシャ・古代インドで通説となっていた「全体観」に基づくものであった。「体液病理説」はのちにガレノスが完成した「四体液説」のベースとなる考え方で、人間は数種類の体液で構成されており、体液のバランスが崩れたとき病気となってあらわれるというものである。

「全体観」では、病気を分類する考え方はしない。現代では「病理学」という病気を分類し体系化する学問が存在するが、「病理解剖学」の基礎が始まるのは18世紀のことである。「全体観」は「体液病理説」にもとづき、人間の身体全体が病気であると考える。病気は一つであり、患者ごとの症状は、さまざまな形で病気があらわれていると考えられた。

ヒポクラテスの時代、古代ギリシャにおける医学はさまざまな学派が存在しており、その中で「コス学派」と「クニドス学派」の対立構造があった。「コス学派」とはヒポクラテスの故郷「コス島」の名を冠したヒポクラテスをはじめとする学派であり、病人の観察と記録に重点を置き、衛生環境や医者の身なりにたいして非常に厳格であった。観察と記録は、病人の家族の病歴や居住環境にまで及んでおり、現代における臨床検査の原型とも言える。病気に対しては「体液病理説」にもとづき人間のもつ自然治癒力を高めるため、良い環境、食事、休養が重要であるとの考え、病人の予後をもっとも重視したと言われている。

一方「クニドス派」は、病気を特定するため診察をもっとも重視し、まさに現代における病理学であった。しかし当時のギリシャでは人体解剖がタブーとされており、解剖学・生理学が成熟しておらず、病気を特定し分類するための手段が限られていた。そのためクニドス学派では誤診が多かったと言われている。病理学を確立するためのテクノロジー不足と、当時の人体解剖に対する禁忌。このような状況から、最終的には「コス学派」が時代の勝者となった。

当時ギリシャ各地には医神アスクレピオスを祀る神殿が建てられ、治療を求めるものは何日も神殿にこもって神官から儀式的治療をうけていた。例えば「てんかん発作」を起こした患者は、突然意識を失い全身を痙攣させるが、当時の呪術的医療においては「神の意思が働き生じたもの」とし、その治療は祈祷などによりおこなわれた。(てんかん発作は上記のように神の意思で起こると思われていたため、神聖病と呼ばれていた)

ヒポクラテスは無神論者ではなかった。しかし「儀式的治療はいかさまであり、病気の治療におけるみずからの無力さを、信仰を隠れ蓑にしてごまかしている」と儀式的医療を否定し、病気の原因は人類の知恵で理解できるはずだと考え、超自然の力に頼った解決にすがることを避けた。さらにヒポクラテスは古代ギリシャで隆盛を誇っていた「哲学」からも医学を開放しようとつとめた。推論と論証ではなく、「現象の観察」から結論を導こうとした。神秘主義や哲学を排除する、この「科学性」が医療にもたらされたことが、医学にとっての非常に大きな一歩である。

さらに、現代において医療従事者の基本的教養である、有名な「ヒポクラテスの誓い」がある。これは医療への忠誠、患者に不利益となる振る舞いをしないことなどの「倫理性」を重んじた、医療従事者としてのあるべき姿を宣誓するものである。

この「科学性」と「倫理性」が医学において大切なことを示したヒポクラテスだが、これは現代にいたっても変わらない真理であり、彼は今もなお医聖として世界中であがめられている。彼が撒いた医学精神は、その後世界中で大輪の花を咲かせることになる。

 

四体液説

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ガレノス

四体液説とは、古代ギリシャ・古代インドで提唱されていた体液病理説やそのほかの乱立した諸学派を統合する形で、2世紀にローマで活躍したギリシャ人医師ガレノス(129〜200頃)により完成を見た学説である。人体を形作るのは四つの体液(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)であり、全身で、もしくは局所的に四体液のバランスが崩れた時に病気が発生するとする学説で、体液の乱れが病気を引き起こす証拠は、過剰となった体液(嘔吐、吐血、鼻水、下痢、下血など)が体外に放出されることで観察される。下剤や催吐剤の処方、瀉血(しゃけつ:意図的に血液を体外に放出すること)などにより体液のバランスを整えることが当時の「治療」であった。

ガレノスによって完成されたこの理論は、のちにヨーロッパ全土を支配するキリスト教的世界観と合致したことで、キリスト教のもつ権威の名のもとに広く受け入れられ、その後実に1500年もの長きにわたり、西洋医学は進化をやめ凍りつくこととなる。ヒポクラテスが産んだ「科学性」の芽が出るのは、16世紀まで待たなければならない。

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