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医学の歴史【2】ガレノスの呪縛を打ち砕いた科学性

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1543年のパラダイム・シフト

南蛮貿易

日本においては、種子島にポルトガル人から鉄砲が伝来し、徳川家康が生誕したこの年、科学と医学において革命の象徴となる書物が出版される。

ニコラス・コペルニクス

・天文学者ニコラス・コペルニクスが地動説を説いた「天球の回転について」出版。

・人体解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスが著した「ファブリカ(人体の構造)」出版。

ルネサンス以前の中世ヨーロッパでは、カトリック教会がキリスト教の教義に反する考えを異端として弾圧し、科学的思考の発展を妨げた。医学においてはガレノスを医学の絶対的権威として神聖不可侵な存在とし、他の医学派を徹底的に排斥していた。そんな時代にあって、「地動説」や「ガレノス医学への問題提起」という大変革が起きたのだ。当時の常識を根底から覆したのはやはり「科学性」なのだった。この1543年は、歴史的名著2冊が同年に出版されていることが非常に興味深い。

医学においては13世紀を過ぎた頃から、カトリック教会において長らく禁じられていた人体解剖が、研究目的のための人体解剖については少しづつ容認し始められた。その後1482年教皇シクストゥス4世は「聖職者の許可があれば死体解剖を行なってよい」との大勅令を出した。これにより人体解剖は解禁され、ルネサンス期にはさかんに行われるようになったのだ。

狂気のヴェサリウス

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アンドレアス・ヴェサリウス

アンドレアス・ヴェサリウス(1514〜1564)は、1514年、現在のベルギーの首都ブリュッセルに生まれた。彼の家系は代々、学者か王家の侍医(貴族付きの医者)であった。自宅の裏に広がる森の丘には絞首台があり、少年期のヴェサリウスは、受刑者が吊るされ、朽ち果てていくさまを何度も見たことであろう。

思春期を迎えた彼は、身の回りの動物を手当たり次第に解剖する衝動にかられ、犬、猫、ネズミなど、好奇心のおもむくまま、動物を切り刻んだ。

1533年、医学を学ぶためにパリに行く。パリ大学での解剖実習講義にヴェサリウスは失望する。教授は解剖台から離れた高い椅子にすわり、当時でも未だに絶対的権威であったガレノスの解剖学書を朗読するのみで、汚らわしい死体に手を触れることなどなかった。当時、外科処置をするのは理髪外科医の仕事であった。権威を持っていたのは内科医であり、教養のない理髪外科医たちに指図して外科処置を行わせていたのである。当時の外科処置とは、ヒゲ剃りや散髪の延長であるという程度の認識であり「医療」とみなされておらず、「医者」とは内科医を指す言葉であった。

そもそも解剖実習は主に動物で行うのが主であり、人間を解剖するのは非常にまれであった。不満を感じた彼は解剖実習の際、理髪師からメスを拝借し、見事な解剖を示してみせた。たちまちその腕を認められ、以後、解剖実習の助手を務めることになった。

しかし実習に与えられる死体はわずかであった。向学心旺盛なヴェサリウスは学生同士で相談し、墓場や刑場に忍びこんで死体を盗み人体解剖をすることに決めた。時には野犬の群れに襲われ、命の危険すらあった。状態の良い死体、骨格を吟味し持ち帰った。彼の人体構造への執着は恐るべきものがある。

そうして解剖学者として成長した彼は、23歳にして名門パドヴァ大学の外科学と解剖学の教授に就任する。彼が行う解剖実習は、彼みずからがメスをとる斬新なものだった。彼は既存の解剖書に書かれている記述よりも、自分の目で見た事実を信じた。そしてガレノスの医学書に書かれた人体構造が現実とは異なるという事実に気づく。ガレノスの存在があまりにも絶対的であったために、後世の人々は、ガレノスが人体解剖にも精通していると信じ込んでいた。ヴェサリウスはガレノスの誤りに果敢に挑み、ついに1543年、医学会の常識を根底から覆す「ファブリカ(人体の構造)」を出版。ヴェサリウス若干30歳の時であった。現代まで残るこの名著により、人類は初めて人体の真の構造をのぞき見ることができた。「人体の構造」出版の以前と以後では、人体の見方はガラリと変わることになる。後に「パラダイム・シフト」と呼ばれるこの偉業は、当時の常識を根底から覆す。

ファブリカ

「ファブリカ」は大きさ縦42㎝、横30㎝のほぼA3サイズの巨大な書物である。ページ数約700ページ、重さは5Kgを超え、全文がラテン語で書かれている。解剖図は人体の躍動感を感じさせるポーズで、極めて立体的で写実的に描かれている。筋肉、骨格、動脈などに特化した解剖図もあり、描いたのは当時の芸術家であった。さらにルネサンス期に発達した印刷技術も名著となる一因であった。それまでの解剖図は主に写本という手作業により行われており、精細さに欠いていた。当時最先端の解剖学的知見と、芸術性、印刷技術が至高の融合を果たしたのが「ファブリカ」であった。

「人は誰でもそれぞれが自分を裁く法廷を抱えていて、そこではいかなる偽の証言をすることも偽の証拠を提出することもできない」

ヴェサリウスが残した言葉である。ヴェサリウスは自分の信念を貫き通し、大義を成した。ヒポクラテス以降、ガレノスの呪縛と宗教の権威によって千数百年ものあいだ忘れさられていた「科学性」が再び目を覚ましたのだ。この出来事は医学のみならず人間の意識全体を変革する起爆剤となった。

医学の進歩に貢献した顕微鏡

17世紀、人類は目に見えぬ領域に到達する。望遠鏡と顕微鏡の誕生である。凹レンズと凸レンズの組み合わせにより生み出された発明は、医学の進歩にもっとも貢献した発明品である。解剖学、生理学、病理学、微生物学など医学の領域というものは顕微鏡を用いて観察することで発展を遂げた。

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ミクログラフィア

顕微鏡学の開祖のひとりと称されるロバート・フック(1635〜1703)により、顕微鏡は科学研究の道具として確立する。「ボイルの法則」で有名なロバート・ボイルの助手としてロンドンで研究活動に入った彼は、もともと画家を志していた。そして1665年フック30歳の時、画家としてのスキルを生かした「ミクログラフィア」という人類初の顕微鏡図譜を出版。視覚効果を巧みに狙ったこの書籍は、ノミ、シラミなどの小さな生物を詳細かつダイナミックに、大きな折り込みページに見開きいっぱいに描かれた。これを見た当時の人々は驚愕し、顕微鏡という機械の持つ無限の可能性を知った。

彼は著作の中で「コルクの切れ端」を観察し、「蜂の巣状の小部屋」を見出し、”cell”(セル)と表現した。彼が発見した「小部屋」はまさに細胞壁で仕切られた「細胞」だった。彼はこの「小部屋」の正体を理解してはいなかったが、”cell”という言葉はのちに細胞そのものをあらわす言葉となった。そのためフックは「細胞の発見者」とされている。

そしてロバート・フックと並び称されるのが微生物学の父と呼ばれるアントニー・レーウェンフック(1632〜1723)である。彼はオランダ生まれの呉服商人であり専門的教育を受けてはいなかったが、その生涯は500台もの「顕微鏡作り」に捧げられた。もともと生地の鑑定に虫眼鏡を使用していたことからレンズの取り扱いには長けていた。レーウェンフックの顕微鏡は金属の板にレンズをはめ込んだだけの単眼式顕微鏡であったが、それはきわめて性能が良く、同時代のロバート・フックの顕微鏡よりも高い解像度をもっていた。

1674年から75年にかけて、レーウェンフックは湖水や雨水の中に脚や尾をもった目に見えない生物が泳ぎ回っていることを発見。それは「原生動物」であった。続けて1676年には「細菌」と思われる生物をも発見。「この世界は目に見えない微小な生物で満ちあふれている」という内容はあまりに突飛で、当時の王立協会の学者には信じがたい報告であった。そこでレーウェンフックは地元の名士たちを自宅に招き入れ、微小な生物を顕微鏡で実際に観察させた。こうした人々の証言を受け、彼の報告への信憑性は高まることとなり、ついに王立協会の会員に推薦されることとなる。

実は彼より100年以上先んじて、目に見えない生物が存在することは一部の人たちには知られていた。しかし彼が「微生物学の父」と謳われるのは、彼がもっていた鋭い観察眼である。当時、微小な生物は植物の種子などから自然発生するものと信じられていたが、レーウェンフックは微小な生物が親の産む卵から孵化するようすや、歯垢のなかに多くのバクテリアが存在すること、精液の中の精子などを観察し、それまで概念的にしか理解されていなかった世界を目に見えるものとし、研究に値する新しい世界を提示したのだ。

科学性が打ち砕いたガレノスの呪縛

ジョヴァンニ・モルガーニ

古代ギリシャの医聖ヒポクラテスの時代より、「治療」とは「病人をみて」行われてきた。つまり「病気」ではなく「病人」を観察することが重要視されてきた。しかしそれは、病気や疾患を分析するテクノロジーがなかったためである。それでは人類が「病気」を見れるようになったのはいつからなのか。それは「病気を見る学問=病理学」の誕生をもってと言えるだろう。病理学は「病理解剖学の父」と称されるジョヴァンニ・モルガーニ(1682〜1771)によって確立された。「病理解剖」とは、生前おこなった治療の妥当性を把握するために行うもので、モルガーニは病気で亡くなった患者の生前の病状と解剖による所見を比較検討し疾患の解明に心血を注いだ。

モルガーニは1682年イタリアに生まれ、16歳からボローニャ大学で医学と哲学を学び、1715年には開業医として成功していた彼は、大学の解剖学教授に任命された。ヒポクラテス以降「科学性」によって医学のみならず様々な学問が発展を続けてきたが、1700年代初頭に至っても人類は未だ古代ギリシャの病理感、つまり四体液説から脱却できてはいなかった。依然として「空気中に漂う瘴気によって〜」などという曖昧な概念で病気が語られていたのだ。1543年の「コペルニクスの地動説」「ヴェサリウスのファブリカ」から実に150年以上経ってもなお、「科学性」はガレノスの呪縛に取り憑かれていたのだ。

そんな時代にあって彼は実に忍耐強く自らの信念を貫いた。そして1761年、モルガーニ79歳に至り、自らの研究の集大成を1冊の医学書として出版する。700例にものぼる病理解剖所見を記した人類史上初の病理解剖学書「解剖により明らかにされた病気の座と原因」である。それはまさに「科学的」であった。「病気の症状は特定の臓器の障害によって引き起こされる」という因果関係を、膨大な症例を積みかねることで証明してみせたのだ。

ー賞賛し追いかけるべきものは「古いもの」でも「新しいもの」でも「伝統」でもない。常に「真理」だけである。

彼のこの言葉にはまさに「科学性」が宿っている。1500年に渡り医学を覆い続けたガレノスの呪縛は完全に消し去られたのだ。

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