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医学の歴史【3】医学と科学革命

教養レディオです。通勤時間や家事の合間に聞き流し、お願いします。

前回は天才解剖学者ヴェサリウスの芸術的解剖学書ファブリカの出版、そして天文学においては地動説の登場。これらがルネサンスという時代の波に乗って人々の価値観を変革した、というところまでお話ししました。

今回の舞台は17世紀から18世紀にかけて。今回の目玉は、ついにあのガレノス医学の呪縛が解かれます。実に1500年続いたガレノス医学。ようやく転換期が訪れます。

みなさん、1500年に渡って人々に信じられてきたっていう事実、やばくないですか?1500年ですよ。1500年ずーっと変わらない常識。日本の1500年前っていつ頃だと思いますか?古墳時代ですよ。前方後円墳をせっせと作ってた時代。古墳時代から信じられてきた常識って何かありますかね?ガレノス医学を盲信してきた当時の人々が、いかに限られた価値観や情報の中で生きていたことかと考えさせられますよね。現代に生きて様々な価値観に触れられるからこそ見えてきます。まぁきっと私達が持っている価値観も、今の時代のものでしかないんでしょうね。歴史を知るとそう思わざるを得ません。

さて、そんな1500年間信じられてきた常識、つまり、医学においてはガレノス医学ですね。このガレノス医学がついに、ついに、人々が手にした武器で倒されます。その武器とは、、、科学です。

それでは参りましょう!

科学革命

時は17世紀、科学革命の時代が到来です。科学革命って聞いたことありますでしょうか。科学の何が革命だったの?気になりますよね。科学革命が起こるのは17世紀ですが、それ以前はルネサンス、大航海時代、宗教改革というほぼ同時期に起こった変革によって、時代は大きく変化していました。ルネサンスという、束縛からの解放と人間性の自由を求める運動。そして印刷技術の革新による書物の広い流通は一般大衆への情報革新をもたらし、さらに腐敗したカトリック教会に対する抵抗勢力の台頭。

人々の行いを評価してきた宗教の影響力に陰りが見えてきたんですね。良いこと、悪いこと、それらを決めてきたのは、そうカトリック教会。その教会が免罪符を売り捌いて私腹を肥やし始めていた。そして印刷技術の革新による書物の流通に伴って拡大する、人々の知識や価値観。正しいことはなんなのか。この世界の真理とは一体なんなのか。そのような時代の中、人類が世界の真理を追い求めたのは必然だったのかもしれません。

科学革命とは、キリスト教的宇宙観、つまり天動説を否定し地動説に転換したこととされており、この宇宙観の変革はコペルニクス的転回とも言われます。要するに人々の常識がひっくり返ったんですね。なぜなら宇宙は神様が作った、神様に似せて作られた人間が住む地球こそ世界の中心、というキリスト教的宇宙観が、観測事実や数学的な説明によって否定されたからです。科学革命の主な牽引者としてはニコラス・コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートン。彼らはまさに時代の変革者でした。

誤解しないで欲しいんですが、彼らは神を信じていたからこそ、真理を追求したという側面があります。神が作った宇宙は規則正しく、美しい法則が支配しているはずだ。そう信じ、科学的知見も持ち合わせたうえで新しい世界観を提唱したんですね。

科学性と信仰心が科学的発展を招いたということであれば、必ずしも宗教と科学は相反するものではないことが分かります。単純な対立構造だけで歴史を見れないことが分かるエピソードだと思います。しかし宗教に縛られない自由な科学的知見が彼らにはあったんですね。

さて、この科学革命に欠かすことのできないアイテムが17世紀に誕生しました。これなくして現代の科学、医療は成り立たなかったと言っても過言ではありません。望遠鏡、顕微鏡の誕生です。凹レンズと凸レンズの組み合わせにより生み出されたこの発明は、医学のみならず科学においても、その発展にもっとも貢献した発明品であると言えます。望遠鏡が天文学、顕微鏡は医学の発展を促し、科学革命にとって必要不可欠な発明でした。

まず望遠鏡についてはガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)がもっとも早く導入、新発見を成し遂げたことで知られています。1608年、オランダで望遠鏡の特許出願の報を聞いたガリレオは、その翌年には倍率10倍の望遠鏡を自ら作成、のちに倍率20倍のものに作り変えています。その倍率20倍の望遠鏡を使って、月面に凹凸があることを発見しました。ガリレオはクレーターを観測したんです。古代より月は完全な球体であると考えられていたんですが、これを覆す観測事実でした。さらにその翌年の1610年、木星の衛星を4つ発見。有名なガリレオ衛星ですね。ガリレオ衛星の発見から2ヶ月後、ガリレオは木星の衛星についての論文を発表、ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)が発表直後の論文を読んでいたことが記録に残っています。望遠鏡の発明からわずか2年で、ガリレオ衛星を発見し論文まで出版してしまうガリレオのスピード感は本当に凄いですね。このガリレオ衛星の発見は、当時主流だった天動説には不利な観測事実でした。そのため天動説支持派との論争に巻き込まれはしたものの、ガリレオは世界的な名声を得ました。

コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンという科学革命の牽引者たちは、宗教からもたらされた宇宙観へ大変革を与え、彼らが繋いだ宇宙観はニュートン力学へ結実し、多くの技術革新を促しました。18世紀の蒸気機関の発明、さらにはのちの産業革命へと繋がっていきます。ニュートン力学は物体の運動や天体の運動までを数学的に説明しました。ここには神の意志などありません。これこそ科学です。人類は神にすがる事なく、この世界の法則を数学によって解き明かしたのです。

医学においては、顕微鏡が発展の役目を担いました。当然ながら顕微鏡の発明以前は、目に見えない生物の存在は一般大衆には知られていませんでしたので、微生物による感染症や、腐敗、発酵などの現象は、未だ原理がわからないものだったんです。

当時信じられていた学説で、自然発生説というものがあります。これは古代ギリシャのアリストテレスが唱えた学説で、19世紀中頃まで人々に信じられてきました。生物が物質から産まれることがあるとする学説で、ウナギやエビなどは海底の泥から発生する。ウジは動物の死体が分解されて自然発生する。と考えられていました。現代の感覚では非科学的でオカルトチックな話ですが、これが人々の常識だったんですね。

自然発生説とくればファン・ヘルモントの実験は外せません。この実験は自然発生説を肯定する実験なんですが、その内容がすごく面白いんです。まず小麦と汗で汚れたシャツを用意します。そのシャツに油と牛乳を染み込ませます。そのシャツを壺に入れて倉庫に放置します。するとネズミが自然発生する、という実験です。思わず笑っちゃいますけど、これが当時の観念なんですね。

この自然発生説は、目で見えるサイズの生物に関しては自然発生しないことが観察と実験により17世紀には認められました。しかし微生物に関しては観測手段がなかったために未だ自然発生説を完全否定できていませんでした。この自然発生説が完全否定されることになるのは19世紀中頃、顕微鏡の発明から250年を要します。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、今回は医学を大きく前進させた3人の開祖をご紹介します。時代背景の説明が長くなってしまうのは、ご了承ください。当時の状況を語らずして、医学発展のプロセスを説明できないんです。医学の発展は政治、宗教などが根底にあり、次いで科学、その影響を強く受けています。人物が何を成したかはもちろん重要なことです。しかし、当時の常識にたいしてどのように変革がもたらされ、人々の意識がどう変化してきたのか。それがとても面白く、歴史を知ろうとするモチベーションになると思います。

ということで時代背景をまとめます。ルネサンス、宗教改革、印刷技術の革新という大きな時代の流れのなかで促進された人々の自由な思考。そして科学革命はキリスト教的宇宙観を覆し、のちの産業革命につながる技術革新をもたらします。科学革命はニュートン力学に結実しますが、このニュートンと同じ時代に活躍した3人の改革者が今回の主役です。

まずは顕微鏡を用いて研究を行い、のちの細菌学や細胞学を生むきっかけとなった17世紀の人物を2人紹介します。17世紀といえば科学革命まっただ中であり、あのアイザック・ニュートンと同じ時代を生きたこの2人は顕微鏡学の開祖として歴史に名を残しています。それでは一人目の開祖、ロバート・フック(1635-1703)彼の業績をご説明します。

ロバート・フックは顕微鏡学の開祖、さらに科学革命を牽引したひとりと称される偉大な人物です。しかしその名を初めて聞いた方、多いと思います。わたしも医学の歴史に触れ、こんな人がいたんだなーくらいだったんですが、とんでもない。ロバート・フック、凄すぎですよ。

じゃあどれだけ凄いか。まず、どのような分野で活躍したかを言いますよ。いいですか?

彼が活躍した分野は、顕微鏡学、解剖学、天文学、測量、建築設計、都市設計、博物学、化学、物理学、数学などです。

万能すぎますよね。ちなみに現存する彼の業績としては、ロンドンのグリニッジ天文台の建築設計があります。彼なんですよ、設計したのは。今回は医学の枠組みでお話ししますが、建築設計なんて彼の業績のほんの一部なんです。そんな彼を人はこう呼びます。イングランドのレオナルド・ダ・ヴィンチ。

ミクログラフィア

さあ、17世紀、ロバート・フックにより顕微鏡は科学研究の道具として確立します。イギリスに生まれたフックは絵を書くことや工作が好きな少年だったと言われています。その後画家をこころざしロンドンに出たフックでしたが学問の道に転身、23歳頃オックスフォード大学に入学しました。その後「ボイルの法則」で有名なロバート・ボイルの助手としてロンドンで研究活動に入った彼は、26歳の頃発表した著作が認められ、創立されたばかりのロンドン王立協会の会員となりました。

ロンドン王立協会とは、1660年、王位についたばかりのチャールズ2世によって創立された、現存するもっとも古い科学学会であります。ここでフックは多くの科学者と交流し、科学界での地位を固めていったんですね。

フックの名声をさらに高めたのは顕微鏡を使った研究でした。動植物、鉱物など様々なものを観察し、画家を目指していた頃のスキルを生かし自ら下絵を描き精巧な図版を作りました。

そして1665年フック30歳の時、顕微鏡を使った研究成果と、そのほかの物理学的実験の成果とともに「ミクログラフィア」という人類初の本格的な顕微鏡図譜を出版しました。30歳といえばヴェサリウスのファブリカ出版と同じ年齢ですね。さてミクログラフィア、この書籍は読者への視覚効果が意識された内容になっています。ノミ、シラミなどの小さな生物、これを超詳細かつダイナミックに、大きな折り込みページに見開きいっぱいに描かれました。自然発生説が世の中の常識だった時代、これを見た当時の人々は驚愕し、顕微鏡という機械の持つ無限の可能性を知ったんです。ここから顕微鏡を使ったミクロの世界の探究が始まるんですね。

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ミクログラフィア

そして彼は著作の中で「コルクの切れ端」を観察し、「蜂の巣状の小部屋」を見出しました。そしてこれを”cell”(セル)と表現しました。彼が発見した「小部屋」はまさに細胞壁で仕切られた「細胞」だったのですが、彼はこの「小部屋」の正体を理解してはいなかったと言われています。”cell”という言葉はのちに細胞そのものをあらわす言葉となりました。そのためフックは「細胞の第一発見者」とされています。

ロバート・フックはこのミクログラフィア出版のほか広すぎる分野で活躍しましたが、彼の肖像画は残されていません。ごく最近想像で描かれた絵画があるのみです。現代における知名度の低さはこれに起因しているのかもしれません。この状況には彼とアイザック・ニュートンとの確執があったと言われています。晩年は気難しい性格であったフックは、ニュートンの論文に対して盗作であるなどと執拗に攻撃しました。弁論を苦手としていた田舎学者のニュートンはフックに苦手意識があったと言われています。その後ニュートンが出版した科学革命の集大成とも言えるプリンキピアという科学書は絶賛され、瞬く間に科学界の頂点へと登り詰めます。ニュートンが高みに登っていくに従って、フックは人々から忘れ去られていきました。フックの肖像画が現代に全く残されていないことは、ニュートンがフックの業績を覆い隠そうと闇に葬ったとする説が、未だ語られています。これは諸説の一部であり真実とは限りませんが、歴史というものが修正され得るものだという事の典型例だと感じます。

そしてもう一人、ロバート・フックと並び称されるのが微生物学の父と呼ばれるアントニー・レーウェンフック(1632〜1723)であります。彼はオランダ生まれの呉服商人であり専門的教育を受けてはいませんでしたが、その生涯は500台もの「顕微鏡作り」に捧げられました。もともと生地の鑑定に虫眼鏡を使用していたことからレンズの取り扱いには長けていたんですね。レーウェンフックの顕微鏡は金属の板にレンズをはめ込んだだけの単眼式顕微鏡と呼ばれるシンプルなものでしたが、それはきわめて性能が良く、先ほど紹介したロバート・フックの顕微鏡よりも高い解像度をもっていたと伝えられています。

1674年から75年にかけて、レーウェンフックは湖水や雨水の中に脚や尾をもった目に見えない生物が泳ぎ回っていることを発見します。それは「原生動物」でした。原生生物というのは、菌、動物、植物、これらのどれにも属さない生物の総称であり、代表的なのがアメーバやゾウリムシなどです。肉眼では見えない生物ですね。続けて1676年には「細菌」と思われる生物をも発見します。「この世界は目に見えない微小な生物で満ちあふれている」という内容はあまりにも突飛で、当時のロンドン王立協会の学者たちには信じがたい報告でありました。そこでレーウェンフックは地元の名士たちを自宅に招き入れ、微小な生物を顕微鏡で実際に観察させました。こうした人々の証言を受け、彼の報告への信憑性は高まることとなり、ついにはロンドン王立協会の会員に推薦されることとなります。

実は彼より100年以上先んじて、目に見えない生物が存在することは一部の人たちには知られていました。しかし彼が「微生物学の父」と謳われるのは、彼がもっていた鋭い観察眼を持っていたからです。当時、微小な生物は植物の種子などから自然発生するものと信じられていましたが、レーウェンフックは微小な生物が親の産む卵から孵化するようすや、歯垢のなかに多くのバクテリアが存在すること、精液の中の精子などを観察し、それまで概念的にしか理解されていなかった世界を目に見えるものとし、研究に値する新しい世界を提示しました。まさに科学的視点によって新たな学問を切り開いたんですね。

科学性が打ち砕いたガレノスの呪縛

ジョヴァンニ・モルガーニ

顕微鏡学が始まった17世紀、古代から続くキリスト教的世界観は科学革命によって大きく転回し、教会が啓蒙してきた世界観は覆されました。しかし、キリスト教と共に他の医学派を排斥してきたガレノス医学が未だに世の定説であり続けていました。冒頭でお話しした通り、ガレノス医学は18世紀に打ち倒されることとなります。ガレノス医学はどのように終わりを迎えたのでしょうか。

科学の歴史第一話でお話しましたが、古代ギリシャの医師ヒポクラテスの時代より、「治療」とは「病人をみて」行われてきました。つまり「病気」ではなく「病人」を観察することが重要視されてきました。病気を分類し体系化しようとする試みはありましたが、定着しませんでした。それは病気や疾患を分析するテクノロジーがなかったためなんです。それでは人類が「病気」を分類できるようになったのはいつからなのでしょうか。それは「病気を見る学問=病理学」の誕生をもってと言えます。病理学は「病理解剖学の父」と称されるジョヴァンニ・モルガーニ(1682〜1771)によって確立されました。「病理解剖」というのは、生前おこなった治療の妥当性を把握するために行うものです。モルガーニは病気で亡くなった患者の生前の病状と解剖による所見を比較検討し疾患の解明に心血を注ぎました。

モルガーニは1682年イタリアに生まれ、16歳からボローニャ大学で医学と哲学を学びました。1715年、開業医として成功していた彼は、大学の解剖学教授に任命されることとなります。ヒポクラテス以降「科学性」によって医学のみならず様々な学問が発展を続けてきましたが、18世紀に至っても人類は未だ古代ギリシャの病理感、つまり四体液説から脱却できてはいませんでした。1543年の「コペルニクスの地動説」「ヴェサリウスのファブリカ」から実に150年以上経ってもなお、「科学性」はガレノスの呪縛に覆われていたのです。

そんな時代にあって彼はとても忍耐強く自らの信念を貫きました。そして1761年、モルガーニ79歳に至り、自らの研究の集大成を1冊の医学書として出版することとなります。700例にものぼる病理解剖所見を記した人類史上初の病理解剖学書「解剖により明らかにされた病気の座と原因」。この医学者は「病気の症状は特定の臓器の障害によって引き起こされる」という因果関係を、膨大な症例を積み重ねることで証明してみせたのです。まさに科学的、そして実証的な方法で構築された著作。そこには体液病理説も四体液説もありません。ガレノス医学が崩壊した瞬間でありました。

ガレノス医学が主流だった時代、自らの人生をかけて新しい学問を切り開いたモルガーニ。彼の言葉につぎのようなものがあります。

ー賞賛し追いかけるべきものは「古いもの」でも「新しいもの」でも「伝統」でもない。常に「真理」だけである。

彼のこの言葉にはまさに「科学性」が宿っています。1500年の長きに渡り医学を覆い続けたガレノスの呪縛は、このモルガーニによって完全に消し去られたんです。医学における科学革命、それはガレノス医学との決別だったのかもしれません。

というわけで今回はここまで。有益だと感じられましたら是非チャンネル登録、高評価をお願いいたします。

それではまた。

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