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科学の歴史④

科学革命

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科学的手法の開拓者、ガリレオ。ガリレオは「科学のモーセ」ともいえましょう。科学をアリストテレスの砂漠から約束の地へ導いたからです。しかしながらガリレオは、モーセと同じく約束の地へ到達することはできませんでした。ガリレオ以降、科学を約束の地へ到達させたのは、アイザック・ニュートンでありました。ニュートン以後の科学は、目的に基づくアリストテレス的自然観を捨て、万物は数なり、とするピタゴラス的自然観を受け入れるようになりました。そして現代に生きるわれわれ自身もピタゴラス的自然観の信奉者であり、なによりニュートン力学の信奉者なのです。われわれは普段の会話の中で、集団の力、病気の加速、精神的な慣性、スポーツ選手の運動量、などのように、力、加速、慣性、運動量といった物理学用語を人々の精神にまで適用して使用しています。ニュートンの法則について何一つ知らない人でも、精神はニュートンの思考にどっぷりと浸かっているのです。何がいいたいかというと、ニュートンが生み出した力学体系は、現代に生きるわれわれに先天的とも言うべきほどにしみついていると言うことです。この普遍的ともいえる概念は、ニュートン以前には一般大衆には存在していないものでした。この事実からわかることは、ニュートン以前と以後では、人々の自然観が塗り替えられたと言うことです。現代に生きるわれわれが自然を紐解くために神様ではなく科学を求めることとなったのはニュートン以後、つまり科学革命以降のことなのです。

科学革命とは、歴史学者ハーバート・バターフィールドが1949年に提唱した時代区分であり、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンと受け継がれてきた宇宙観の変革、力学体系のことであり、ニュートン力学の成立によって完了する一連の成果のことであります。それまでのアリストテレス的自然観から脱却した人類は、新たな世界へ到達したのです。科学革命期の代表的な研究対象は天文学でありました。キリスト教的世界観のうえで盲信されてきた天動説を覆し、地動説へのパラダイムシフトを起こしたことは、人々の価値観を一変させました。今回はこの地動説にスポットをあてて、解説していきます。それではいきましょう!

人類の科学の歴史を語るうえで、古代ギリシャを外すことはできません。宗教による科学探究への弾圧が無かった時代、古代の人々の自由で深淵なる思考は、2000年もの昔にすでに驚くべき数多くの発見を成し遂げていました。そのうちのひとつが紀元前3世紀のアリスタルコスの太陽中心説、つまり地動説です。しかし古代のコペルニクスと称される彼の主張は人々に受け入れられませんでした。アリストテレスやプトレマイオスが提唱する天動説が支配的だったからです。観測技術の未発達さ、万有引力の法則が発見されていない古代において、太陽が地平線から登りやがて沈むことと同じように、他の星々についても同様の動きを取っているように見える以上、地球中心の宇宙観を抱くのはむしろ自然なことでもありました。古代、天動説を主張する学者たちにとって天動説が優位的だったのは、当時の知見のもとで論理的に説明できるのが天動説であったことが理由ですが、コペルニクスに至るまでの千数百年もの長きに渡り天動説が支配的だった大きな理由。それはプトレマイオスが体系化した天動説がキリスト教と結びついたことで人々の宇宙観が決定的なものになったことが挙げられます。キリスト教が人々の思想を支配していたルネサンス期に至るまで、天動説は2000年以上も盲信されてきたのです。

しかしルネサンス期に入ると古代の価値観への回帰が始まりました。キリスト教の思想が人々の価値観を支配していた世界において、キリスト教成立以前の価値観に回帰するため、古代の文献を人々は求めました。そのような運動の中で、人々はアリスタルコスの地動説に触れることになります。このような影響、観測事実などを積み上げて、コペルニクスは地動説を提唱しました。しかしカトリック司祭であったコペルニクスは、この地動説を広く主張することには消極的でした。自説をまとめた学術書においては、自説が教義に反するものではないことを長々と注釈をいれ、ついには存命中の出版には首を縦にふりませんでした。コペルニクスの学術書「天球の回転について」が出版されたのは彼の死後。1543年のことでした。宗教と科学の立場から見ればどっちつかずなコペルニクスではありましたが、ここから科学革命は始まったのです。

コペルニクスが提唱した地動説は発表当時、大した評価も下されず直ちに人々の宇宙観を変革させたわけではありませんでした。当時の天文学に求められたのは、気象予測や農業における収穫時期などのための暦を裏付ける意味での星の動きの正確な計算だったのです。古代、プトレマイオスが体系化した天動説は、正確に星の動きを予測できましたがかなり複雑でした。そのためコペルニクスの学説は、簡単に計算できる新しい学説程度の認識でしかなかったのです。

コペルニクス以後、地動説を大きく後押ししたのが、ドイツのヨハネス・ケプラーでした。ケプラーは大学時代にコペルニクス的宇宙観と数学に触れ、そのどちらにも深く傾倒しました。成績も優秀で、もともとプロテスタントの牧師を目指していましたが、数学と天文学の大学教師の道を選びました。1596年には「宇宙の神秘」と題した書籍を出版。その上でコペルニクスの地動説を全面的に支持しました。ケプラーと同じ時代に生きたガリレオが、ケプラーの書籍を読んだ上で、その考えを支持する手紙を送っています。その後デンマークの貴族であり天文学者のティコ・ブラーエの助手として勤めました。ティコは天体観測に並々ならぬ情熱を燃やした人物であり、当時としては最高峰の精度で、膨大な観測データを持っていました。1600年から始まった共同研究は、翌年には終わりを迎えます。ティコが病死してしまったたのです。ケプラーに託されたティコの膨大な観測データから、ケプラーは1609年、ケプラーの法則を発表しました。ケプラーの法則は3つの法則から構成されていますが、最も重要なのが太陽を中心とする惑星は真円軌道ではなく楕円軌道を描くということを数学的に説明したケプラーの第一法則です。古代ギリシャ以降、天体は真円に基づく運動をするはずであるという思考が支配的であり、あのコペルニクスもガリレオも真円軌道から脱却できていませんでした。そのため細かな点で天動説支持派から矛盾を指摘されてきましたが、楕円軌道を想定することで天体の軌道を完璧に説明できるようになりました。これにより地動説の優位性が決定的なものになったのです。

ケプラーの法則が発表されたその年、オランダで特許が取られたばかりの望遠鏡を自ら改良し、月を眺める男がいました。ガリレオ・ガリレイです。このエピソードでお気づきかと思いますが、それまでの天体観測というのは肉眼によるものであり、望遠鏡は17世紀初頭に発明されたものなのです。この望遠鏡の発明と、科学的姿勢の体現者たるガリレオの狂気的な努力の末に、地動説を後押しする証拠を突き止めることとなりました。まず望遠鏡を通して見た月の表面は、山あり谷ありのデコボコであり、天体は完全な球体であるとするアリストテレス的考え方を否定する観測事実が突き付けられました。その翌年には木星の衛星を4つ発見します。有名なガリレオ衛星です。

アリストテレス的宇宙観においては、宇宙は地上とは別の世界であって地上とは異なる法則性に従って成り立っているとされてきました。その上で全ての天体は地球の周りを回っているのだと。しかしガリレオが望遠鏡を通して見た月の表面は平坦ではなくデコボコで、山や谷によって変化に富んだ地球の表面に似ていなくもなかったと感じました。ガリレオには、月が地上とは違う世界には見えなかったのです。さらなる観測によって、木星の周りを回る衛星をも発見したガリレオには、全ての天体が地球を中心に回転しているとは思えず、むしろ地球も他と同じ天体の一つでしかないとの考えに行き着きました。もともと地動説を支持していたガリレオでしたが、カトリック教会とのいざこざを避け、地動説を支持することを公言することはしていませんでした。しかしこれらの発見を成し遂げたガリレオは、自らの発見を認めてもらいたいと考えるようになり、地動説を主張し始めるようになります。その行動の集大成として1610年に出版された論文が「星界の報告」であります。それまで誰も見たことがなかった月や惑星の細部を解説したことで天文学界を仰天させ、ガリレオの名声はヨーロッパ中に広がりました。

コペルニクス、ケプラー、ガリレオと受け継がれてきた地動説。観測事実や数学的な説明によって地動説は優位性を持って受け入れられました。しかしそれは、太陽系の現状を説明するに留まるものでしかないことは否定できません。そもそもなぜ天体は楕円軌道を描いているのか?なぜ天体は太陽の周りを回転し続けているのか?これらに疑問を持った人物がいました。コペルニクスから始まる科学革命の大トリを勤め、宇宙のみならず地上をも含めたあらゆる物体に適用できる普遍的な力学体系を提唱し、科学史において最も偉大な貢献をした男、アイザック・ニュートンです。

1642年、ガリレオが77歳でこの世を去ったその年、ニュートンはイギリスに生まれました。冒頭で説明した通り、人類がアリストテレス的自然観と決別し、世界は数で構成されているというピタゴラス的宇宙観を受け入れるようになったのは、ニュートン以降のことであります。現代においてもニュートンの名は広く知られていますが、彼の人生について詳しく知る人は少ないでしょう。彼は人間嫌いで融通がきかず、生涯を通して理解ある友人には恵まれず、愛した人は一人もいませんでした。しかし科学史においてはこの気難しく研究熱心なニュートンの性格は、好ましいものであったことでしょう。ニュートンが全く違う人生を送っていたなら、今の科学は存在していなかったかもしれないのです。しかしながら、このように社交性皆無のニュートンの人生は、見方を変えれば崇高なのかもしれません。誰かが意図した思想誘導により形成された社会の方向性に逆らわずにただ流れに身を任せる大衆にとって、ニュートンは異端であったことでしょう。しかしニュートンにとってはそのつまらない常識こそが、真理を追求する上での不純物であったかもしれません。いずれにしても我々は、ニュートン力学以降の世界で、その科学を享受し生きているのです。

ニュートンはその生涯において、3つの重要な発見をしました。微分積分法、光学、万有引力の法則です。これらはニュートンの3大業績と呼ばれています。もともとケンブリッジ大学で勉学に勤しんでいたニュートンでしたが、ペストの蔓延によって大学が閉鎖、故郷ウールスソープに戻っていた18ヶ月の間に固められたがニュートンの3大業績であり、ニュートンが25歳になるまでに成し遂げられたものなのです。貧しかったニュートンは、裕福な学生に仕えて身の回りの世話をしながらわずかな給料を貰うことで大学へ通っていましたが、ペストによる大学閉鎖によってこれらの雑務から解放されたことで、この有意義な18ヶ月の期間が生まれました。しかしながらこれらの業績はニュートンにとって完璧とは言えず、世間への公表はしませんでした。ただしこの3大業績と呼ばれたアイデアは、20年後に自身が出版することとなる歴史的名著でありニュートン力学の集大成、プリンキピアに結実することとなるのです。

プリンキピアは1687年に出版されたニュートンの研究の集大成であり、邦題では自然哲学の数学的諸原理と呼ばれます。その題名からわかる通り、自然、つまり地上に存在するあらゆる物体や宇宙に存在する天体の軌道に至るまで、万物の運動法則が数学的原理に支配されていることを説明する書籍であります。天体は楕円軌道を描くというケプラーの法則に触れたニュートンは、なぜ天体は楕円軌道を描くのか疑問を持ちました。天体に楕円軌道を描かせる何らかの作用があるはずだが、それは一体なんなのかを考えました。ニュートン以前のアリストテレス的考え方では、目的論と呼ばれる自然観が支配的でした。目的論とは万物には目的があり、小石は地上に帰り、水蒸気は天に帰る。物質それぞれに帰る場所があるというアリストテレス的自然観に対して、ニュートンは大学時代に万有引力の着想をえたのです。万有引力は、地上にある物質に留まらず、天に浮かぶ星々さえも同様に物質であり、質量の大きさに比例して引力を持ちそれぞれの物体が互いに引き合っているというニュートンの主張は、発表当時、科学界を騒がせました。目に見えない相互作用が働いているとするニュートンの主張は、当時の科学者たちから「オカルト的な考え方」であるとして批判され、すぐには受け入れられませんでしたが、現代においてニュートンの業績は他の追随を許さない輝かしい評価をえています。先人の成果を引き継ぎ、ニュートン力学に結実させたことは、まさに科学革命の大トリにふさわしい快挙であり、人類の自然観をアップデートさせたことは誰しもが実感できることでしょう。

そして重要なのが、科学と宗教の単純な対立構造を想像しがちな私たちが注意しなければならないのは、ニュートンは物理学の研究と同等、もしくはそれ以上に神学の研究にも没頭していたという事実があることです。プロテスタントであったニュートンは、宇宙が数学的原理に支配されていることと神の存在は矛盾するものではないとのスタンスをとっていました。むしろ科学を研究することは、神を研究することに他ならず、科学に対する熱意は宗教的熱意の一部であると信じていました。これはのちのアインシュタインにも通ずる信念であることは無視できない事実です。アインシュタインは、神が作る世界はシンプルで美しい法則性に支配されているはずだと信じていたのです。ニュートンの業績は、先人たちの科学の探求の集大成であり、宗教が人類の精神性を高めた一例なのではないでしょうか。

ということで今回はここまで。

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次の動画でお会いしましょう。それではまた。