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美容整形の本質

どうも教養レディオです。

今回は美容整形をするとは、本質的にどういう行為なのか、というテーマでお話しします。なぜ美容整形をするのか、ということについては、「コンプレックスをなくしたい」とか「自分に自信を持ちたい」などの動機が良く語られます。みなさんもよく耳にする動機だと思いますし、実際そのような思いで整形を経験した方もいると思います。

しかし。しかしですよ。「そもそもなぜコンプレックスを抱くのか」「そもそもなぜ自分に自信を持てないのか」ということについては議論されることが余りにも少ない。語られない。なぜ容姿に劣等感を抱いたり、自分は人並み以下だと思ってしまうのか。ここを議論せずに、美容整形をすることが良いことなのか悪いことなのかの二元論でしか語られない。しかし本質は違うんです。なぜ人々は自分の容姿に劣等感を抱いてしまうのか。それが今回のテーマであり、人々が整形に走る隠れた原因なんです。

ちなみに美容整形なんてうけるのは顔にコンプレックスを持ってる女性だけでしょ。俺は男だから関係ない、と思っているあなた。そんなことはありません。あなたも美容整形をおこなう可能性のある、美容整形予備軍である可能性が非常に高いです。いやそんなことないよ、整形しようなんて考えたこともない!と思っていても、美容整形予備軍の可能性は多いにあると断言します。

その証拠は、私があなたに問いかけるたった一つの質問によって明らかになります。実際にこの動画の最後に、その質問をします。ぜひ最後までご覧頂きたい。

そして本題に入る前に、教養レディオのチャンネル登録がまだの方は、是非チャンネル登録おねがいします。

断っておきますが、わたしは美容整形手術をおこなうこと自体に対しては賛成でも反対でもありません。先ほど言ったように、そもそも良いか悪いかの二元論ではないんです。重要なのは、そもそも人々が劣等感を抱く理由、そして美容業界の構造を知ること。それがもっとも重要であり今回のテーマです。きっとあなたの美容整形に対する、言葉にできない感情を言語化できると思います!

今回美容整形をテーマにするにあたって参考とした書籍は、谷本奈穂さんという社会学者の方が2008年に出版した、「美容整形と化粧の社会学」。この書籍における考察を主軸に、美容整形というものの本質に迫ります!

身の周りにあふれる「身体加工」

この谷本さんの書籍では、髪を切る、化粧をする、ダイエットに挑む、ヒゲの形を整えるなどの美容整形を含むあらゆる美容行為を「身体加工」と定義しています。身体加工は私たちの周囲にあふれていて、経験したことがない人はいませんよね。身体加工を行う動機は地域や時期によって大きく違うということを述べています。例えば入れ墨は、魔除けや呪術的な意味を込めて行う地域もあれば、単なるオシャレのために行われる地域もある。これが何を意味しているかというと、身体加工へ至る動機というのは地域や文化、時期によって様々であり、身体加工はその人々が生きる「社会」によって動機づけがされているということです。

例えば、身嗜みと称して髪型を整えたり、ヒゲを剃ったり、服装を整えたりしますよね。身なりを整えることと、だらしない格好とでは明確に優劣がついています。これは社会によって決められていますよね。

そしてその社会の中で、自己表現のために身体を加工することが成立しているとしています。つまり、社会こそが人々の外見である身体、さらには身体加工までをも定義づけしているのだということです。

われわれは、自分の意思で身体加工を選択しているようでいて、特に美意識に関わる身体加工については、社会的圧力によって強制されているんだと言ってるんです。

衝撃ですよね。あなたが選んでるんじゃない、社会が、世の中が、あなたに強制しているんだと言ってるんです。

「いやそんなことないでしょ、私は自分で選んで、自分なりの美しさを保つために努力してるよ。社会とか誰かに強制されてなんかいない!」と思いますよね。それでもいや違う、強制されてんだよって本書では言うわけです。いやそんなことあるか?と思いますよね。ぜひこのまま最後まで見ていただきたい。

さて、本書では実際にいろんな人にアンケートを行なったうえで様々な考察をされているんですが、その中でひとつ。

2005年の大学生へのアンケート。ちょっと古い情報ではありますが非常に興味深い内容です。大学生へのアンケートで、あなたは整形したいですか?したくないですか?というもの。

整形したいと答えた人が全体の45.2%に登ったと書籍で語られています。かつては忌むべきものとみなされていた美容整形が、多くの人に許容されるようになってきたことを示しています。

美容整形の流行、エステ、フィットネスクラブ、ダイエット・・・世の中に溢れる身体加工は、社会的圧力によって促され、自己表現のために身体加工を行う、という図式があることを指摘しています。社会的圧力というのは、例えば「痩せよう」「身嗜みに気をつけよう」ということであるし、消費社会においてはあらゆる身体加工が商品化されていますよね。美容整形のみならず、化粧品、ダイエット食品。美容業界の広告は世に溢れています。かつて忌むべきものだった美容整形が、かつてほどの抵抗なく受け入れられている現代、身体加工に対する人々の意識が大きく変わったことを示しています。そして著者の谷本さんは言います。身体加工が自己表現の手段となっている現代、人々が「自己」「アイデンティティ」というものをどのように認識しているのかが、美容整形というものから見えてくるとしたうえで、現代社会に生きる人々のアイデンティティを考察することが本書の目的であると述べています。

だいぶ壮大なテーマなんですよ、この本。人々が口にしがちな常識とか普通というものに疑念を持っている私にとっては、そこに迫れる本なんじゃないかと思いました。普通ってなに?人並みの人生ってなんなの?これは世の中の価値観に対する疑問であり、その根源を知りたい人にとってはかなり重大な情報ですよね。それではまず美容整形がどのような歴史を辿ってきたのかから見ていきますが、その流れから社会にはびこる価値観の根源を探っていきます!それではいきましょう!

美容整形の歴史

ピアスや整形手術については、親からもらったカラダにキズをつけるなんてけしからん!という主張がありますよね。この主張の根底にあるのは、実は儒教なんです。日本における儒教は、5世紀ころ、仏教伝来よりも早く日本に伝わったとされており、仏教が広く受け入れられる以前は、神道が日本人の主な信仰対象でした。儒教はこの神道と結びつき人々に受け入れられましたが、飛鳥時代、その信仰対象が仏教にとって変わってからは江戸時代にいたるまで衰退を辿ります。しかし江戸幕府によって封建制度の維持管理にふさわしい学問として奨励され、武士、学者に広まってからは、その教えが日本人の精神に大きな影響を与え現代に至っています。儒教の教えに、「体は両親から授かったものなのだから、まずは自分の体を大切にすることが親孝行の始まりだ」とする教えがあるんです。これが整形を否定する時の「親からもらった体にキズをつけるなんてー」のもととなる考え方だと言われています。儒教は武士道のベースにもなっており、主君への忠誠、親孝行、弱きを助け、名誉を重んじるという武士道の根底には儒教の思想があるんです。現代に生きるわれわれにも馴染み深い考え方だと思います。古き良き職人には武士道的価値観を残している人がいそうですよね。実際周りにそのような気質の人が居る!という方もいるかもしれません。江戸時代に隆盛を誇った儒教的思想は、現代においても人々の精神に根付いているんですね。

西洋においても、体は神様や王様の所有物であるから個人が勝手に手を加えるな、とか、神こそが美しいものを決めるのだから、人が美を目指して化粧をするなど神への冒涜だとされていた時代があり、これらが西洋東洋問わず、整形に対するネガティブなイメージの根底にあると思われます。

このようにネガティブなイメージがありながら、現代における美容整形の立ち位置はむしろポジティブといえます。冒頭にお話ししたとおり、大学生へのアンケートでは4割を超える学生が整形に肯定的です。もともとネガティブだった整形が、ポジティブに転じたきっかけはどこにあるのか。それは1920年代のアメリカにありました。

第一次世界大戦のころ、戦争で傷ついた兵士の顔や体を治療することが求められ、この時期に形成外科学が医療の一分野として成立してきました。しかしながら、外見的美しさを求めるためだけに手術を行うことへの抵抗感は依然として残っていました。これは、医療というものが病気や怪我を治療するためにあるのだということが強く信じられてきたからです。病気でもないのに体にメスを入れるなんて、そんなものは医療ではない!というわけですね。

それが第二次世界大戦に至る時期には、外見を重視する風潮が高まり、その需要が外科医に向けられました。もっときれいに、美しくしてほしい。外科技術に対する新しい要望は高まりましたが、それに答える大義名分がなかったため、外科医は頭を悩ませました。手術は病気や怪我に対しておこなうものであり、機能的に問題がないのに手術はできない。しかし我々医者への要望は高まっている。どうすればいいのだ!

ここで彼らは、体の美しさや醜さを「ある種の病気」にすり替える論理を必要とし、「劣等感」という概念に飛び付きました。1920年代のアメリカでは、専門家のみならず民衆にも知られた概念であった劣等感という概念。もともとは心理学、精神の問題であったはずです。しかし医者たちは「劣等感を治すにはその原因である肉体の方を直さなければならない」という論理にすり替え、美容整形へ正当な理由をもたらしたわけです。劣等感を病気と結びつけることで、社会的に正当性を得た美容整形は1920年代から1930年代にかけて、医療の対象として人々に認知されていきました。

劣等感のほか、コンプレックスという言葉も同様の手法で使われています。2001年からフジテレビ系列で放送されていたビューティーコロシアムという番組のHPには、次のような言葉が書かれていました。

きれいになりたい!という願いは女性なら誰でも持っている。きれいになったら、コンプレックスを治したら、明日から違う人生が待っているかもしれない。

この番組では恵まれない容姿によって不幸な人生を送っており、恵まれない容姿によって前向きになれない。というのが番組出場者の典型例であり、いずれにせよ劣等感やコンプレックスが整形の免罪符として必要とされていることがわかります。この構造は1920年代のアメリカとまったく同じなんですね。

このように、美容整形は「劣等感の克服」という大義名分を得たことで正当化され、医療の名のもとに人々に受け入れられたのです。

美の神話という元凶

人々を整形に走らせる社会的圧力に、美の神話というものがあります。もともと男性中心社会によって女性に押し付けられた「妻であれ」「母であれ」「女性らしくあれ」といった「女らしさの神話」。フェミニストによって1963年に出版された書籍のタイトルでもあり、本書により提唱された概念が「女らしさの神話」です。これはアメリカにおけるフェミニズム運動の原動力となりました。それから30年。「女らしさの神話」に代わり生まれた概念が、「美の神話」です。1994年、あるフェミニストによって出版された書籍で語られるのは、女性は美しくあるべき、といった社会的圧力の正体が「美の神話」という概念であるとする主張です。1963年に見出された女らしさの神話という概念は時代とともに形を変え、美の神話という形で現代においても人々の美意識を支配しています。

美の神話というのは、社会や大衆が抱く美意識であり、大衆が共有する価値観そのものです。例えば「美人」という言葉は、定義の難しい曖昧な概念であるにもかかわらず、多くの人が美人とは?と言われたら、多少の違いはあっても大まかに同じ方向の美意識に収束しますよね。例えば女優さんだったりモデルさんだったり。社会において美しさは規格化され、本来個人が自由に持てるはずの美意識が社会によって画一化された時代にわれわれは生きているというのです。美の神話は、「きれいになりたい」という願望だけでなく、「普通になりたい」「人並になりたい」という願望をも生み出す社会的強制力の発生装置なんです。

この美の神話が巧妙なのは、あたかも、いわゆる「女磨き」が自発的なものと人々に思い込ませているところにあります。例えばある女性がダイエットに励み、エステに通い、美容整形を受けているとします。この女性は、「スレンダーな体に私がなりたいから、私が自分で決めて、私が美しくなり、私が成功体験を得るのよ」と言った具合に、そこには一見、自己決定と自己実現があるかのようです。しかしそれは美の神話によって生み出された社会的に一律な美意識や価値観によって強制されたものではないのだと、否定はできないのです。

メディアという媒介者

私達は自分の顔を、鏡や写真、他人の言葉による評価といったような、ある媒介を通してでしか認識できません。媒介され可視化された身体しか見ることができないし認識できない。その媒介の中でも極めて強い影響力を持っているのがマスメディアです。マスメディアで目にする、いわゆる美人女優やアイドルと呼ばれる女性、醜さをウリにする女性芸人。大衆の美意識を形づくっているのは、マスメディアをはじめとする情報媒体であることに、異論を挟む余地はないでしょう。そんなメディアの中で明治期から大衆の美意識を形成してきたのが、化粧品広告です。明治期から始まった化粧品広告は多くの場合キャッチコピーとともに、とにかく「美を創出するもの」として大衆に語り続けてきました。

90年代のキャッチコピーを引用すると、

今日の肌、朝の乳液ひとつできれい

などのように、化粧品が美しい身体をつくりあげるものとして語られています。そのキャッチコピーに合わせて広告を飾る、いわゆる一般的な「美人」。まるで化粧品広告に美人とはどういうものかを示されているかのようです。化粧品広告をはじめとして、メディアが大衆の美意識を定義し、大衆は画一化された美意識を抱き、大衆の需要に応えるためにさらに美の神話を発信するメディア。このスパイラルこそが美の神話を確固たる地位に君臨させている構造でしょう。私達は、美しいものをあたかも自分で決めているように錯覚しているけれども、冒頭でもお話ししたように人々の外見を評価しているのは「社会」であり、人々の無意識の美意識が美の神話なのです。

人々が美を目指せば目指すほど、美の神話はより強固な存在として社会的圧力を強めていく構造がお分かりいただけたでしょうか。人々は無意識のうちに美の神話を生み出し、美の神話に劣等感を植え付けられ、美容産業にお金と時間を費やし、美容産業は美を意識させる広告をうちだす。広告は新たな美を提示し、人々はさらに美の神話を強固にしていく。

まるでロールプレイングゲームのラスボスが、人々の憎しみの集合体であり、人々が争えば争うほどにラスボスが強大な存在として君臨する構図と似てますよね。憎しみが憎しみを生むストーリーと同じで、美の神話が世の中にある限り、美意識は循環し自動的にアップデートされ続けていくんです。

次は消費者がどのような心理的プロセスで美容整形を実施するのか、その動機について説明します。

美容整形に至る動機

美容整形は医療という側面を持ちながら、ファッションやメイクといったものと結びつけられるよう広告がうたれ、消費者の美容整形に対する忌避感は時代とともに薄れてきているのは誰しもが実感できると思います。医療という側面をもちながらより商業的性質を持ち始め、実際に美容整形がお金になるということで、美容外科に転身を図る医師も少なくないようです。医療とは別に、独立したひとつの市場を形成しているのは興味深い事実です。そんな美容整形産業の一部を構成する消費者。消費者がいなければ美容整形産業は成立しません。この消費者たちはなぜ美容整形を選択するのか。

まずこの動機については、参考文献の著者、谷本さんが興味深い調査・考察を行なっています。ズバリ、人はなぜ美容整形をするのか。実際に、女性のみ400人に対してアンケート調査を行い、その動機について考察するという内容です。

  • 同性や異性に評価されたい
  • 流行に乗り遅れないため
  • 自己満足のため
  • 若く見られたい

などの全12項目を選択させた結果、美容整形を希望する女性は、希望しない女性に比べて、自己満足のために整形したいという回答がもっとも多かったんです。この回答は意外ですよね。てっきり承認欲求を満たすために整形をするものだと思いがちですが、自己満足のために整形を希望しているんです。

自己満足に次いで多かったのが同性異性に評価されたい、バカにされたくない、若く見られたいなどの、他者の評価を理由に整形したいという回答です。

これらの回答を踏まえ、谷本さんはこう主張しています。

自己満足という言葉一つに様々な意図が込められている可能性がある。そもそも他人の真の動機を知ることはできない。本当は他人の目を気にして整形したいが、その理由を自己満足という言葉に収束させている可能性は否定できない。それが意識的、無意識的に関わらず。

つまり谷本さんは、自己満足という言葉を理由に美容整形を選択するという事実が重要なのであって、さらには真の動機を追求することではなく、自己満足と語る時の自己、自分というものの定義について語ることが重要だと言っているんです。

美容整形をする時に、自己満足のため、という理由は無難な動機として選ばれやすい。美容整形を希望する人が好んで使用する表現なのだそうです。美容整形を受けたい人の語る「自分」というのは、自分だけの満足、自分だけの心地よさを語りつつも、その満足や心地よさの中には他者の評価が無意識的に組み込まれていると結論付けています。

この谷本さんの調査・考察から見えて来るのは、整形希望者が結局、他者の目を気にしているということです。整形希望者は、自己満足のためと言いながら、実は他者から見た自分を高めるために整形を選択をしていると推察できるんです。

この調査の結果から、ひとつの疑問が浮かび上がります。それは、他者の目にとっての美人とはどういうものなのか?ということです。他者の目を気にして、美しいを目指すということは、他者の美意識と自分の美意識が一致していなければ整形するにしても方向性を打ち出せませんよね。しかしながら多くの美容外科クリニックにおいて提案、またはプランを提示されるのは、

  • パッチリ二重
  • 涙袋
  • 目尻・目頭切開
  • 鼻を高く
  • アゴ削り
  • エラ削り

などの内容であり、おおむね画一化されていますよね。これは大多数の人が画一化された美意識を有していなければ成立しないビジネスです。人々の外見に対する美意識が大きく違っていれば、このような画一化されたビジネスは機能しません。しかしなぜ多くの人が一重より二重を支持し、目を大きくしようとし、顔を小さくしようとするのか。

これこそが美の神話なのです。画一化された美意識の根源。日々テレビや雑誌の上で活躍するスーパーモデル、女優、アイドル、化粧品広告やファッション広告。これが画一化された美意識の根源であり、美の神話なのです。大衆は無自覚に美しいとされるものを大量に摂取し続けてきました。人気女優を起用した化粧品のCMや広告。私たちの美意識は、メディアや広告の影響を強く受けています。そして大衆の中で生まれた画一化された外見的美意識は、その美意識から外れた容姿の人たちにコンプレックスを生み出すのです。女性は美しくなければいけない、綺麗でいなければならない。消費者を刺激する広告合戦の果てに美の基準は上がり続けてきたのです。

コンプレックスは理想と現実のギャップです。理想の自分と今の自分。そのギャップが大きければ大きいほどコンプレックスを感じ、コンプレックスを埋めたいと思うものです。大衆が思う理想像はメディアや広告によって視覚化され、そのコンプレックスを美容整形産業などが埋めて利益を得る、という構図です。

人々のコンプレックスを埋めて利益を得る産業のことをコンプレックス産業と呼びます。美容整形、ファッション、化粧品、ダイエット食品・・・コンプレックス産業は人々にコンプレックスがあればあるほど需要が増えるんです。美の神話によって生まれるコンプレックスこそ、人々が美容産業を求める構図なのです。

そして恐ろしいことに、美容整形産業では、市場拡大のため「人々に新たなコンプレックスを作り出す」ということも行ってきました。その被害にあったのは女性だけではありません。

世の男性に問いかけるたったひとつの質問

冒頭でも説明した通り、美容整形に対する関心というのは、女性だけが持っているものじゃないんです。男性も多くの人が持っています。いやいや、自分は美容整形なんて興味がないしやりたいと思わない、と思っていても、美容整形産業が仕掛けたコンプレックスの渦に確実に飲まれています。私は冒頭で、たったひとつの質問によってそれが明らかになると言いました。では男性であるあなたに、ひとつだけ質問をします。

仮性包茎であることは、恥ずかしいことですか?

なぜこんな質問をするのか。それは仮性包茎が恥ずかしいことだという価値観は、1970年代から美容整形産業によって繰り返し行われてきた刷り込みによって成立した、という事実があるからです。そもそも人間は、8割を超える人が包茎であり、生物学的に見ても包茎は自然なことなんです。真性包茎などは保険適用のうえ手術が行われますが、仮性包茎は保険適用外です。つまり仮性包茎は手術の必要は全くない、いたって健康で自然な状態なんです。それが1970年代以降、美容整形産業によって繰り返し行われてきた、仮性包茎は恥ずかしい、男らしくない、不潔、などの刷り込みによって、多くの男性にコンプレックスを植え付け、ひとつの市場を生み出したんです。つまり、不要なコンプレックスを新たに生み出すことで利益を得ていたのが美容整形産業なんです。人々のコンプレックスを金に変える産業とも言えますね。もしあなたが仮性包茎であることを恥ずかしいと思っているのなら、それは美容整形産業の消費者予備軍であることの紛れもない証拠なんです。

このようなコンプレックス産業から見えてくる事実がひとつあります。それは美容整形をのぞむ、美容整形を行うということは、他者や社会が抱く美意識、つまり美の神話を信仰する行為に他ならないということです。簡単にいうと、社会や大衆が望む姿に自分を加工し、他者に承認されるための行為だということです。そもそも主観である美意識に正解も不正解もありませんし、自分の理想像を他者に決定してもらうという行為は不自然だと思いませんか?美の神話に服従するということは、自分らしい外見というものよりも、他人の評価こそが重要だと認識しているということです。

美容整形希望者が、自分に自信を持ちたい、前向きに生きたい、職業上整った顔にしたい、昔からのコンプレックスを解消したい、などの一見様々な理由で整形を望んでいるとしても、それらは全て「他人の目」を前提にしていることが今までの説明で理解できると思います。コンプレックスを生み出すメディアや広告、そのコンプレックスを金に変えるコンプレックス産業。

消費者がいる限り、コンプレックス産業は潤い続けます。あなたが美の神話に反旗を翻す勇気ある存在であるならば、それは常識や普通というものに対するアンチテーゼであり、新しい価値観を生み出すきっかけになるのかもしれません。美の神話にあなたは抗いますか?それとも服従しますか?

今回はここまで。

有益だと感じられましたらぜひチャンネル登録高評価をお願いします。

それではまた。