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煙草の歴史②【日本におけるタバコの歴史】

japanese smoking

前回の記事では「世界における煙草の歴史」を紹介しました。長くのあいだ医療品として浸透し、20世紀にはいり企業が消費を拡大するために販売促進をおこない「資本源としてのタバコ」は「嗜好品」として確固たる地位を築きました。

1600年頃、日本に薬効とともに伝えられたタバコは、どのような立ち位置で現在に至ったのでしょうか。

その歴史をご紹介します。

タバコの伝来

・1500年代半ば、日本は銀の産地として世界に知られ、当時の地図上で「銀の島」とされていた。

・1543年、倭寇の船が種子島に漂着、船員のポルトガル人が鉄砲を伝えたとされる。

・1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸。

・1563年、ルイス・フロイスが来日、織田信長に接近、キリスト教の布教を許される。

・1601年、マニラから来日したヘロニモ・デ・ヘスス神父が徳川家康に謁見し、煙草の種子を献上したという記録がスペインの王宮図書館の古文書にある。しかし秋田の院内銀山の銀山奉行が残した記録によると1612年にはタバコの売買に課税されていた記録があり、それほどに喫煙習慣が普及していたことを示唆している。家康へのタバコ種子の献上からわずか10年ほどでそこまで普及するとは考えにくく、それ以前からタバコは伝来していたのではないかとの説がある。

・貿易とキリスト教の布教が戦国時代末期〜江戸時代初期にかけての日本の歴史に深く関わっていた。

倭寇(わこう):13世紀〜16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸沿岸部、東アジア等で活動した海賊。密貿易を行う貿易商人。倭寇とは中国、朝鮮において「日本人海賊」の意。日中戦争時の日本軍も倭寇と呼ばれており、反日感情の表現として差別的に使用されることがある。倭寇は前期倭寇、後期倭寇に大別され、前期倭寇はおもに日本人で一部高麗人、後期倭寇は中国人が多数派で一部に日本人やポルトガル人などの諸民族が属していたと言われている。上記1543年の倭寇は後期倭寇として扱う。

秋田「院内銀山」におけるタバコ

・1606年、院内銀山が発見される。関ヶ原の戦いで挙動を咎められ左遷同然に秋田へ送られた佐竹氏により銀山開発が進められた。技術者、鉱夫、商人、遊女、浪人、迫害されたキリシタンなどあらゆる階層の人間が流入。町には米屋、酒屋、タバコ屋、味噌屋、塩屋、魚屋、遊郭など賑わい、江戸時代初期〜明治後期まで途中の盛衰はありながらも日本最大の銀山であった。

・銀山町における物販については町の入口に「十分一番所(じゅうぶんのいちばんしょ)」が設置され、街に持ち込む商品を役人が査定し、その一割の”十分一役(じゅうぶんのいちやく)”を入山関税として課した。

・さらに町中のタバコ屋の中から取り立てた、タバコ営業税をまとめて藩に納める「タバコ役持」という請負人がいた。タバコ役持はタバコ屋が番所を通って運び込む葉タバコ1枚ごとに判を押し帳面に記録する仕事もおこなった。判の押されていない葉タバコは「無判タバコ」とされ、無判タバコを販売、購入したものは極刑をもって罰せられた。藩は町で売買されるタバコを厳重に管理していたことが伺える。

謎に包まれたキセル

・文献上、キセルの文字が最初に出てくるのは1603年。しかしそもそもキセルがいつ頃から使用され始めたのか、名称の由来も定かではない。

・1609年の記録に「京都のならず者が大きなキセルを腰に差し乱暴して捕らえられた」といった内容の記述あり。

・近年の研究では、ポルトガル語で「吸うもの」を意味する”que sorver”、あるいはスペイン語の”que sorber”、「キソルベル」が「キソル」「キセル」に変化していったとする見解を発表した。

輸出入の開始

・1837年、アメリカの商船モリソン号が通商を求め日本人漂流民を伴って浦賀に来航。しかし「異国船打ちはらい令」による砲撃を受け撤退。

・1846年、アメリカ海軍ビドル提督が清国との通商条約を結び、米国への帰路に浦賀へ来航、開国を打診する。

・明治維新15年前の1853年、アメリカ合衆国フィルモア大統領の書簡を持参したペリー提督率いる4隻の黒船が来航し、武力を示威し開国を迫る。巨大な蒸気戦艦を目の当たりにした幕府の要人は、その軍事力と経済力格差に動揺したことが想像される。幕府は書簡を受けっとたが返事は翌年とし、ペリーは琉球に向けて出航、その後中国へ向かう。

・ペリー来航の1ヶ月半後、ロシアのプチャーチン艦隊が来航、北方領土の国境交渉と通商開始を要請。16世紀以降にシベリアへ進出したロシアは、南下政策を進める過程でアメリカより50年も早くから日本に開国を迫っていた。

・1854年、7隻の軍艦で江戸湾入りしたペリーは、4回の正式会談を経て日米和親条約を結ぶ。ペリーとの和親条約の交渉中、前年に勃発したロシアとトルコのクリミア戦争に、イギリスとフランスがトルコ側について参戦したとの情報がオランダから伝えられる。なお幕府がペリーとの交渉に応じ、条約締結に踏み切った理由として、清とのアヘン戦争(1840〜1842年)に勝利し清を開港させたイギリスの軍事力と動向への強い懸念があった。

・日本が鎖国から一転し開国を急がざるを得なかったのには、上記のような緊迫した東アジア情勢があった。

アヘン戦争:1700年代にインドを植民地とし次なる矛先を清国に向けていたイギリス。1700年代末のイギリスと清国の貿易は、イギリスの輸出品は売れず、貿易収支は大幅な入超であった。この状況を打破したのがインド産アヘンだったが、アヘン貿易は清国は禁じていた。しかし1800年代に入ると密輸が急増、事態を憂慮した清国は1839年、二万箱あまりのアヘンを没収、焼却処分。これに対し1840年、イギリスは16隻の軍艦を派遣し上海から南京に迫りアヘン戦争が始まった。1842年、清国は敗北を認め、1842年に南京条約締結。続いて香港のイギリスへの割譲などが決められることとなる。

安政の五カ国条約

・1856年、アメリカの外交官ハリスがアメリカ総領事として下田玉泉寺着任。貿易の開始を促す「日米修好通商条約」の草案を幕府に提出。幕府の役人が仲介する「会所取引」ではなく自由貿易を要求。ロシアやイギリスの領土的野心を引き合いに出し、アメリカの友好的姿勢を強調、通商開始を迫る。

・1857年、幕府は日米修好通商条約草案の合意に踏み切る。

・1858年、大老に就任したばかりの井伊直弼は、清国がイギリスに降伏したことを知り、勅許なしの条約調印を決める。このアメリカとの条約に準じてイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商条約を結び、これが「安政の五カ国条約」と呼ばれる。

・大老井伊直弼の勅許なき条約調印による貿易開始や外国人の居留は、尊王攘夷運動を引き起こし、内乱、外国人襲撃、外国船との軍事衝突が続発。そのため7年間、条約の完全履行ができず、幕府はその代償を1866年調印の「改税約書」で払わされ、関税が大きく引き下げられることになる。

・幕末に結ばれた「改税約書」により、明治期に入っても財政面、国内産業保護の面でも不利な状況に立たされることになる。

会所取引(会所貿易):幕府役人の統制下に置かれた会所を通じて行われた貿易。
勅許(ちょっきょ):天皇の許可。
尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう):1858年、孝明天皇の許可を得日米修好通商条約を結んだ幕府への批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き、活発な尊王攘夷運動へと展開。1860年、桜田門外の変により井伊直弼は暗殺されることになる。

紙巻タバコの輸入の始まり

・明治10年代(1880年前後)に入ると「口付シガレット」「両切タバコ」の輸入が増加。舶来商品として人気を得るようになる。

・舶来品の流行を追って、輸入品の口付シガレットを模倣した紙巻タバコの国産化が加速。両切りタバコを本格的に製造販売したのは村井兄弟商会だった。創業者の村井吉兵衛は、タバコ屋に生まれ、養子先もタバコ屋だったため、葉タバコの知識があり、紙巻タバコに適する葉のブレンドを研究。さらに卓越した営業戦術により成功をおさめる。

口付シガレット:口付シガレットは、ロシアで発達し、北欧で多く見られましたが、現在では、次第に生産量が少なくなってる。日本では現在、生産されていない。紙巻たばこに口紙と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口をつけたもので、そこを吸いやすいようにつぶして喫煙するもの。

タバコ税制

・明治政府のタバコ税制は、1876年1月1日に施行された、「営業税」「印紙税」2本立ての「煙草税則」に始まる。

・消費税課税の前提条件には該当せず、脱税が多かったため税収はあがらなかった。

・1882年、「煙草税則」が全面的に改正されたが脱税は止まなかった。

・1888年、「煙草税則」第二次改正。刻みタバコだけに課されていた印紙の貼付が紙巻タバコにも義務付けられ、20%の従価税が課されるようになる。ただし輸入タバコには印紙税は課税されなかった。

・1891年、タバコ業界は製造タバコへの課税に代えて葉タバコにも課税することを求めた「煙草税則改正の請願」を明治政府に提出。

内容は2点で、

「煙草税則第二次改正により国産の紙巻煙草にも二割の印紙税が課せられたが輸入紙巻煙草には印紙税が課されず、価格面で不利となり競争できない」

「刻みタバコの輸入関税についても低く、印紙税を課された国産品とは大きな差がある」

という内容。

・上記の請願は取り上げられず、タバコ業界は1892年に再度、輸入タバコにも印紙税を付加するよう要請。この増税案は取り上げられるも国会で否決。輸入タバコへの印紙課税が、外国との通商条約の税則の改正がなければできないという問題は、当時の否決の場で問題提起されていた。

・印紙税による課税が見送られ、関税が低いこともあり、輸入紙巻タバコの需要は伸びていき、1896年〜1899年には、日本はATC(アメリカン・タバコ社)の最大の輸出市場となっていった。

・同時期、日本のタバコ企業も日清戦争の勝利の結果、韓国、中国などへの輸出を始め、活況を呈する。中でも村井兄弟商会は手作業から機械生産に切り替え、機械化の遅れた競合他社を圧倒し、国内最大のタバコ会社となった。

明治政府の条約改正交渉

・1871年、岩倉使節団を派遣し、幕末に結ばれた通商条約の改正を要請、拒否される。以後、条約の改正は明治政府最大の外交課題となる。

・様々な協議を踏まえ、1894年の日英通商航海条約を皮切りに、各国との改正条約が結ばれるようになり、関税自主権回復への道が開かれた。

葉タバコ専売法の制定